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2001年6月4日(月)バンガロール・2001年インドの旅第38回

         
  • 公開日:2009年11月25日
  • 最終更新日:2022年6月24日
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

6/4(月) バンガロール 曇時々晴 気温25℃

6:15 休憩 気温24℃ 曇 チャイRs.5

辺りがだいぶ明るくなった頃、バスは最後の休憩のためドライブインに入りました。

バスのチケットには到着予定時刻が書いていないので、あとどれくらいでバンガロールに到着するのかわからないのですが、すでに山道を抜け出し平らな広い道路に入っており、なにより車の数が増えているで、もうそう遠くはないのでしょう。

バスを降りると外の気温はだいぶ涼しく感じました。カバンに付けている小さな温度計で確かめると25℃でした。
ガイドブックによれば、バンガロールは標高920mの高地にあり涼しいとのことですので、この気温からするとやはりかなり近づいているのでしょう。

さて、トイレに行こうと歩き出すと、遠くから何やら四角っぽい影がこちらに近づいて来るのが見えました。
若干逆光気味なことに加え、まだ半分寝ぼけマナコだったためにはっきりとは見えないのですが、それは大人の半分くらいの大きさのようで、明らかに「歩行」とは違う形態で移動しており、それでいてしっかりとした意思を持って私に向かって来ているのだということが分かりました。
なんだろう?と思っている間にも、それは意外なほどのスピードでみるみる近づいて来て、ついにはっきり見える範囲に入って来ました。

それ、いえ、彼は、両腕から肩にかけての筋肉がたくましく発達した男でした。しかし彼には両足がないため、その身の丈は私の腰くらいまでしかないのです。胴体の末端には黒いゴムのシートを付け、その胴と二本の腕を交互に前に出すことで、こちらに向かって来ているのです。

やがて彼は私のすぐ前まで来ると、今まで移動に使っていたその太い腕をすっと私の方に差し出し、訴えかけるような眼で私の顔を見上げました。

そう、この男は物乞いなのです。

【ここでちょっと物乞いについて】

インドでは物乞いは珍しくありません。そしてインドを旅する上で、どうしても避けられないことのひとつが、物乞いといかに対処するかということです。
とにかくその数は半端ではありませんので、いくら小銭とはいえ、そのすべてに施しをするというのは到底無理なことで、またいちいちそれをしていたら、ちっとも前に進めなくなってしまいます。

結局物乞いへの対処法もその人次第、インドに行って何を見るか、何を食べるか、何を買うのかと同じことで特に決まりはないわけで、見たいものを見て、食べたい物を食べて、欲しいものを買い、そして物乞いに対しても、あげたければあげればいいし、あげたくなければあげなければいいのです。

私は物乞いに対しては、いくつかの「自分ルール」を持っています。ルールがあった方がいちいち考えなくて済み、楽だからです。でもその内容はナイショです。なにしろ何の根拠もない勝手な決め事ですから。
でもただひとつはっきりしているのは、私が物乞いに小銭を与えるという行為は、自分のためにやっているということです。
それはある時は物乞いの鬼気迫る哀れな表情に負けて、そこから生まれる良心の呵責から逃れるためであり、またある時は、善行(小銭を与えることがそうだと仮定して)をすることで事がうまく運ぶようにと願いながら自ら進んで与えたり、そしてある時は、求める相手にそれを与えることで、自分自身が充実感を得られるようにするため(まあ自己満足ということです)にと、とにかく「情けは人のためならず」的な考えからなのです。つまり私にとって物乞いに与える小銭は、免罪符であり、お賽銭であり、寄付といった意味合いになるのです。

それと忘れてならないのは、インドの物乞いはプロフェッショナルであり、観光客のやわな心を揺さぶって小銭をせしめることなどお手の物だということです。インドの物乞いの稼ぎは、下層労働者の収入なんかより、よほど高額だったという研究結果もあるようなのです。

またあちらでは、「富める者が貧しき者に与える」ことは当り前という考えがありますので、たとえ純粋な同情心を持ってお金をあげたとしても、こちらが思うほど相手は感謝していないようなのであります。

【以上】

私はデリーや他の街でもいろいろな物乞いを見て来ました。
その中にはいろいろな意味でかなり衝撃的な人もたくさんいましたが、今ここで下から私をじっと見上げている彼は、その移動スピードの速さという意表を突く登場の仕方もあって、寝起きの私に今までにない大きな衝撃を与えたのは事実でした。なにしろ本当にその場から逃げ出したくなったほどですから。

そこで私は、彼の差し出すたくましい手に5ルピー硬貨を渡しました。
でもそれは、良心の呵責からでもなく、願掛けでもなく、ましてや自己満足などではありませんでした。

それはただただ、彼の勢いに呑まれた、ということだったのであります。

う~ん・・・

そういうやり方もあるのか・・・

つづく

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