2001年インドの旅・目次
- 公開日:2009年10月5日
- 最終更新日:2022年12月8日
ここでは2001年にインド亜大陸を2ヶ月半かけてほぼ一週した時のお話しをさせて頂きます。
内容は当時のメモを元にして新たに解説及び写真(またはメモ帳に描いたイラストや切符などの資料など)を加えた構成になっております。
いかんせん遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したもので、最新のインド事情ではありませんので、参考程度にお読み下さい。
*各記事の解説は2009年10月~2010年2月のものです。
搭乗後には紙パック入りの甘いマンゴージュースが配られるのだ。
晴れていれば右手にヒマラヤ山脈が見える・・・かもしれない。
エアコン、トイレ、ホットシャワー付きのツインルームで一泊600ルピーなのだ。
夕飯はルームサービスのチキンフライドライスで45ルピーなのだ。
この時マックでは「The Lucky Itch」なる懸賞キャンペーンを展開していた。
日曜日なのにラールキラーは暑さのためか意外と閑散としていた。
インドの安宿のルームサービスは決して贅沢などではない。
政府系のセントラルコテージはだいたいの相場を見ておくのにいいのだ。
スーパル・バザールはその名に恥じるうらぶれ振りだった。
アーマダバードのオートリキシャは料金メーターを使ってくれた。
ガンディーアシュラムは静かでホッとする空間なのだ。
菜食主義者ではないのでお肉屋さんはテンションが上がるのだ。
少しくたびれたホテルだがタージマハルホテルと同じ通り沿いにあるのだ。
サイクロンの接近で爆発的な波しぶきが上がっていた。
サイクロン一過のマリーンドライブはとても気持ちがよかった。
タクシーに足元を見られないよう踏ん張って歩くのだ。
オフシーズンのリゾート地は空いていて部屋代も安いのだ。
海は崖の下まで降りて行かなければならないのであった。
パナジ教会は往時のポルトガルをしのばせる建物なのだ。
遠くから何やら四角っぽい影がこちらに近づいて来るのが見えました。
閑静な住宅街を散策していたらまた道に迷ってしまった。
毎回同じ食堂で同じものを食べるのが一番安心安全なのだ。
ホテルのマネージャーは200ルピー少ない領収書をくれた。
フォートコーチンへのフェリーはほんの15分ほどしか乗らないのだ。
「どうだ、あの船に乗ってみないか?」とじいさんは言った。
そこに住む人々の生活を見ようとすると覗き行為のようになってしまう。
椰子の木があぜ道に立つ田園風景が近くで見たかったのだ。
困っている人を助けるというのはごく普通の行為なのだ。
客引きの「オーシャンビュー」の言葉に偽りはなかった。
チケットオフィスのおばさんはやけに愛想が良かった。
頭のふらつきは久しぶりのワインのせいではなかった。
インドでは先駆的なスーパーマーケットは買い物がしやすい。
ジョージタウンはチェンナイの下町商店街のようなところなのだ。
コイルヒータが壊れたので、電気ポットを買うことに。
政治家の緊急逮捕にチェンナイの街は厳戒態勢だった。
チャールミナールはハイダラバードのランドマークなのだ。
大都市ハイダラバードではバス移動が現実的な移動方法なのだ。
私にとって白いトラ見物は大阪万博で果たせなかった宿題なのだ。
子ども店長の作る生絞りジュースは本当にうまかった。
プリペイドタクシーのドライバーはなぜかとても不機嫌だった。
ガンジス河は人々の欲望もなにもかも飲み込んでしまうようだった。
バラナシは最後の最後まで私の人間性を試すのであった。
久しぶりのデリーはまるで故郷のように思えるのだった。
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