この本は芥川賞作家、遠藤周作の「最後の純文学長編」である。(と本の帯に書いてあった)
話の概要としては、インド旅行に参加した5人の人間模様を通し、宗教とは何か、信仰とは何かを問いかけるものとなっている。
主な登場人物の5人には、それぞれの人生で背負ってしまった重荷があり、それがためにインド旅行への参加を決意する。そして訪れたガンジス河の聖地ヴァーラーナスィで、それぞれに何かを感じるというものである。
でも、ここではそれ以上の内容には踏み込まず、あくまでもインドがらみでお話しさせていただくとする。
主人公とその関連人物は、もともとインドとはまったく縁のない人生を送っていた。(だからツアーでの参加なのだが)
しかし登場人物の中で唯一、ツアー添乗員である江波は四年間のインド留学の経験があり、その流れで添乗員として働くことになったのだが、インドに関する知識と思い入れが深いため、たびたびツアー参加者の安易なインド感にムキになって応対してしまう。
そんな彼の思いを描いたシーンを以下に抜き出してみる。
江波は午前中、わざとガンジス河のガートに行くことを避けたが、それは日本人観光客たちにたんなる好奇心でこの聖なる河、聖なる儀式、聖なる死の場所を見学させたくなかったからである。日本人たちが沐浴しているヒンズー教徒を舟上から見て必ず言う言葉は決っていた。
「死体の灰を川に流すなんて」
「よく病気にならないね、印度人たち」
「たまらないな、この臭い・・・・・・印度人、平気なんだろうか」
今度もいずれは軽蔑と偏見のまじった観光客のそんな声をきかねばならぬが、それは夕暮で結構だ。
【遠藤周作著「深い河」講談社文庫版より引用】
ヒンドゥー教徒(作品の中では「ヒンズー教徒」と表記)は輪廻転生を信じる。そのことはこの作品の中にも繰り返し出て来る。そしてヒンドゥー教徒の最終的な願いは、その輪廻からの解脱である。そのためみなガンジス河までやって来るのである。
ツアー添乗員江波も、日本人旅行者を案内して何度もガンジス河にやって来る。
まさしくそれは輪廻のようであり、その都度上記引用文のような思いをさせられ、ストレスが溜まることであろう。インド人が生きることは苦しいことであると思うように、江波にとって添乗という仕事は苦しいものなのだ。しかし苦しくとも生きねばならないのが人生であり、苦しくとも働かなければならないのが生活というものなのである。
はたして江波には、いつ解脱の時が訪れるのであろうか。
私は作品の本題とはまた別に、そんなことを考えてしまったのである。