これは映画「GANDHI my father」のDVDジャケットです。
この映画は大英帝国の支配からインドを独立に導き、「建国の父」と呼ばれたマハトマ・ガンディーの、私生活での「父親」としての立場を描いたものです。
映画の冒頭、行き倒れ状態の浮浪者の男が病院に担ぎ込まれて来ます。そして力なくボロ雑巾のように横たわる男の口から父親の名前が漏れ聞こえて来ます。
何を隠そう、その男こそマハトマ・ガンディーの長男ハリラールだったのです。
まあ私は実際にガンディー一家の私生活を知りませんし、それどころかガンディーが生きた時代にまったく居合わせていない年齢なものですから、ガンディーに関しては映画「GANDHI」での印象がとても強いのです。
で、そこにきてこの「GANDHI my father」の冒頭シーンで、落ちぶれた男が「ガンディーの長男」と知ると、とっさに先の映画「GANDHI」で牢獄から帰還したガンディーを迎える子どもたちの顔が脳裏に浮かび、「あゝ、あんなにかわいらしかったぼっちゃまが、なぜにこのようなお姿に・・・オイタワシヤ・・・」と思ってしまうのであります。
ということで「GANDHI my father」は、偉大なる父親とはまったく逆の、転落の人生を歩んだ息子のお話なのです。
ガンディーの長男ハリラールは仕事もうまくいかず、酒におぼれ、異教への改宗を繰り返すなど、聖人ガンディーの顔に泥を塗るような行為を繰り返し、次第に身を持ち崩して行きます。 しかしそんなハリラールも初めから自堕落な生活をしていたわけではなく、偉大な父親に少しでも近づこうと努力していたのです。ところが父親からは自分の望む援助(たとえば留学)が得られず、次第に父から遠ざかるを得なくなって行ったのであります。
この映画(事実に基づいて作られています)を見て、「建国の父たるガンディーも、実際の父親としては失格だった」という感想を持たれる方も多いかもしれませんが、私はむしろ「ガンディーも父親としてはごく普通の人だったんだなあ」と親近感を感じました。
親子の仲は他人からはなかなかわからないものです。特に父親と息子という関係は、容易に甘えを許さない「男同士」という意識が存在し、それゆえにストレートな愛情表現ができる母親とは決定的に違うものなのだと思うのです。つまり父親は、息子かわいさゆえに突き放すという行為をしてしまうということです。
まあそれも他人の私が想像するガンディー父子の関係ですので、実際にはどうだったかわからないのですが、この映画はなかなか良くできておりまして、ガンディー好きの私でさえこの映画の鑑賞中は息子ハリラールに完全に感情移入してしまい(私すごく単純なもので)、ガンディーの息子に対するつれない態度に、つい「このくそジジイがあ!」と怒鳴ってしまったほどでした。
そんな「GANDHI my father」で私が一番印象に残ったシーンは、すでに家を出てしまったハリラールが、汽車で旅立つガンディー夫妻に会いに来るシーンです。
人込みをかき分け夫妻が座る窓際まで来たハリラールは、母親にだけしきりに話しかけ、父ガンディーを無視しし続けます。そんな一見修復不可能な関係になったガンディーとハリラールなのですが、そんなぎこちない態度ゆえに、二人の間にはやはり切っても切れない血のつながりというものがあるんだなあと感じられたのであります。
どうでしょう。 こんなシーン、どこかの家庭でも見られるのではないでしょうか。
前回に引き続き、「偉大なる魂」の側面に関するお話でした。
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