2013年グジャラートの旅・実録編
- 公開日:2014年2月5日
- 最終更新日:2022年12月8日
ここでは2013年11月に行ったグジャラート州の旅を、メモ書きを元により事実に忠実(なるべく)にお話させていただきます。
この記事は2013年に相棒Y君(略してY棒)とインドのグジャラート州を旅した時のメモを元に各種解説を加えたものです。実際のメモ帳には文章が言葉足らずになっていたり、本来漢字で書き表すべきところをひらがなで書いていたりするところもありますが、それはあくまでも現場で書いて行く「メモ」という特性上仕方のないことであり、ここに転載するにあたっては最少範囲内で体裁を繕っております。だからもし「あっ、この人絶対この漢字書けてないよね」などと気が付いても、ぜひ黙って優しく見守って欲しいとお願いする次第なのであります。尚、登場人物の氏名に関しては原則としてイニシャル表記(一部インド人や日本人以外の外国人を除く)とし、人物の風貌や雰囲気を表現する言葉は、万が一本人が読んでもたぶん気にしないであろうと思われる場合のみ原文を採用しております。
さすが始発駅、しかもインド国鉄自慢の優先列車とくれば、まず遅れることなく定刻運行なのでとても助かる。
ラージダニ・エクスプレスでは朝まずお茶が配られる。ベッドから移動することなくお茶が飲めるというのは実に贅沢である。
1、2軒断られた後も、行けども行けども手頃そうなホテルはすべて満室で断られてしまった。
店を手伝っているらしき少年たちがかわるがわる写真を覗き込み、想像した以上の盛り上がりになってしまった。
花模様の付いた透明のビニールシートをベッドの中央に広げて食べる。
このパン屋は店先に椅子を設置し、その場でも食べられるようにしている。
またパンを電子レンジで温めてもくれる。
屋根の上からの見晴らしはなかなかよかったが、上がってしまってもいいものなのかちょっと心配だった。
井戸は満々と水を湛えており、吹き抜けになった天上からの光が緑の水面に降り注ぎなんとも神秘的であった。
「釣りはいらねえぜ」と気取るほどの金額ではないかもしれないが、ドライバーはよほど嬉しかったらしく、飛びっきりの笑顔を返してくれた。
デリー方面から列車でアーマダバードに来ると、駅に到着する直前の右手に二本の古そうな塔が見える。
近々お祭りでもあるのか、モスクのすぐ横では数人の子どもたちが太鼓の練習をしていた。
「インドのコーラ」などとも呼ばれるが、私はカンパ・コーラと区別するため「インドのドクター・ペッパー」と呼んでいる。
氷屋は手で押さえて立てていた氷の柱を倒してしまい、みごとに砕けてしまった。
真っ暗な町の中に佇む小さなチケットブースは、灯りも薄暗くなんとも頼りのない感じであった。
休憩などで降りる時はバスの特徴をよく見ることが大切である。できればナンバーを控えておくとか、デジカメで撮っておくとより安心である。
街の人たちはとても親切で温かく、「うちに来い」と言ってくれるじいさんが現れたり、通りがかりに飴をくれた警官がいたりという歓待ぶりなのである。
ジュナーガルは古い立派な建物が半分朽ち果てながら町に溶け込んでいる。
ジュナーガルの古い欧風建築群は、歴代のインド人太守が築き上げたものであるという点が面白い。
菜食主義者ばかりの町かと思っていたが、そんなことはなくこうして魚が売られていた。
肉や魚などを扱う市場からわざわざ離してもうひとつ市場を設けているのは、厳格な菜食主義者への配慮なのだろう。
四角い巨大な井戸の周囲の岩壁に掘られた、らせん状の階段を降りて行く。
こちらの井戸は底に向かってスロープ状の階段が真っすぐ延びている。
学生のグループが「一緒に行こう!」と先に立って案内をし始めた。
店で扱っている楽器は一通りできるようで、珍しい外国人旅行者のためにトランペットを吹いてくれた。
ライオンのいる辺りは猛獣コーナーなので、類似種のトラやヒョウがいる。
実はこれは「マハーバト・マクバラー」ではない。この建物は「ヴァジールズ・マクバラー」と言うのである。
常備携行食料であるバナナを買う。
リンゴやザクロも売られていたが、バナナだけを買う。
すぐ前の席に、おじいさんと小さな女の子という組み合わせの乗客がいた。
ホテルの近くに行くとますますその高級感がひしひしと伝わって来て、入るのに躊躇してしまった。
ガンディーに関する本にも「ガンディーの生家」としてまさしくこの門の写真が載っている。
陽気なおっちゃんは自分の禿げ頭の横にキャベツとカリフラワーを掲げておどけて見せる。
私たちに少年は、いいんだ、大丈夫だよと優しく言ってくれた。
なんと道端に車を停めるような感じで船が停泊していた。
犬も怖そう。額のキズが過去の熾烈な闘いを物語っている。
木のベンチにまたがって勝負しているところなど、まるで縁台将棋のようである。
海にいつまでいても特に面白いことはなさそうだったので、早々に部屋に引き上げることにした。
フロントに下りて行くと、タイミングよく係りのあんちゃんが「起きて来た」ところであった。
ホテルではドアマンが日の出に合わせて国旗の掲揚をするところだった。
早めにバスターミナルに来たのはバスに「座って!」行きたかったからなのに・・・
インドの踏切は列車通過のかなり前から閉じたりするので、日本では考えられないくらい待たされる。
カラフルなビーチサンダルが並べられていたりして、聖地というよりビーチリゾートのような雰囲気が漂っている。
老女のグループが輪になってなにやらしていたり、向こうでは太ったおばさんが祈りを捧げている。
店先でフライパンを振って作っているプラーオが実にうまそうだったので、ふらふらと店に入って行った。
こちらに来ると眺めがよく、こうして旅の記念写真などもきれいに撮れるのである。
熱心に祈るおじさんの姿を見ていたら、こちらまで敬虔な気持ちになって来る。
オートリキシャのドライバーもとても良いおっちゃんで、特に20ルピー以上は要求しなかった。
車内はますます混んで来て、かなりの人数が立っている。
おっさんはこともなげに「ブジ行なら6時半、8時、9時、10時15分、11時半、12時15分がある」と即答した。
出て来たものはダニアンがたっぷり入った緑色のぐちゃっとしたご飯だった。
朗詠している人たちに許しを得て祭壇に進み、異教徒ながら旅の安全を祈念してお堂を後にした。
立派な門が残っている。その気になって見て回れば、この街も面白いものがいろいろあるのだろう。
早朝の出発で一番心配なのは、自分の目覚めではなく宿側の目覚めである。
私がヤキモキしていてもどうにもならないので、気分転換とストレッチのために車外へ出てみた。
こうしてバスの中にも売りに来る者もいる。このあんちゃんはパイのようなものを売り歩いていたので買ってみた。
窓はおろかドアまで開けっ放しにしているので、一番奥の部屋だと他の宿泊客が部屋の前を通らないのが良い。
日本人の目からしたら、これはまさしく「カレー」としか呼びようがないように思えた。
日中は汗ばむほどの陽気のブジだが、陽が沈むと気温が下がり、朝方は肌寒いほどだった。
この大広間は2001年公開の映画「ラガーン」の撮影にも使われた。
小さな店だがガラスケースの中や壁に色々な刃物が置かれ、この地方の剣らしきものも吊る下がっていた。
インド式ファーストフード店といったところで、みんな狭い店内に置かれたベンチに座ったりそのまま立って食べたりしている。
ローガン・アートというのはワックスに色を付け、糸状に伸ばして布に模様を描くというものである。
台所用品やおもちゃらしきものなどがあり、確かにどれもカラフルできれいである。
カッチ地方はパキスタンと国境を接するため、そこに入るには当局への登録が必要となる。
大地は水をたたえ青く見えていたが、やがて辺り一面真っ白な塩の平原が広がるのだ。
カッチ地方にはこのようなリゾートホテルがいくつかあるとのことである。
最前列がポーランド人女性、平行に出しているつもりが少し下がってしまっている手が私である。
観光客を乗せて散歩していたラクダももう帰り支度をしているようである。
こちらはチキンカレーであるが、骨を取り除いてあるので食べやすい。
手ぬぐいはほとんど使わず、誰かにあげてしまおうと思っていたのである。
アジュラックプリとはアズラック(アジュラック)の布を作る人たちが多く住む町である。
ティンドーラのカレーとナスのカレー、ミティセウと呼ばれる甘い味付けの麺、それにチャパティとローティー
あらかじめタテ糸が張られていて、そこに二人がかりでヨコ糸を織り込んで行くという作業である。
工房ごとに独自のデザインや商品があるので、ここでもかなり時間を掛けてじっくり見学した。
奥さんはなかなか闊達によくしゃべる人で、われわれ一行はすっかりくつろぐことができたのである。
夜更かし組には加わらず早く寝たのに疲れが取れない・・・歳のせいか。
なんだか遠く異国の地に知人ができたような気分になりちょっと嬉しい。
チャイ屋のおやじはあきらかに私に照準を絞って大声で呼びかけて来た。
かなりしつこく探し回った挙句、とうとうブジ最後の夜の豪華な晩餐をあきらめた。
大震災で大きなダメージを被ったこのマハルであるが、きっときれいに修復されていくのであろう。
こうした模型やジオラマの展示物は好きだなあ。なんせわかりやすい。
ホームでは見送りに来た人たちが手を振っているが、それはあたかも私に向かって振られてるように見える。
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