今夜の宿はすでに予約してあるというのに、空港から出られないとは、なんてことなんでしょう。
出発ロビーと外とを隔てるものはたった一枚の扉で、しかもそれは90度に開かれており、私はそのほんの1m足らず手前のところに立っているわけで、勇気を出して不意にダッシュをすれば、外に出られそうな感じです。さらにダッシュの前にフェイントなんか仕掛ければ、もう完璧でしょう。
しかしその扉の手前にいるのは、小銃を肩にかけた屈強そうな警備員なわけで、もし仮にうまく突破できても、数歩も走らないうちに背後から射殺されてしまうでしょう。
はたしてそんな危険を冒してまで、私はここから脱出しなければならないのでしょうか。
否!
いないないないないなかっぺ大将!です。
ぜんぜんまったくそんなことはしなくていいのです。
なにしろ私は善良なる一市民であり、一時は爆弾犯人の疑いをかけられたとはいえ、優秀なるデリー警察爆弾処理班並びに爆発物判定審査委員会の面々によって無罪は証明されており、青天白日の下、大手を振って表街道をのっしのっしと歩ける身分なのです。下がりおろー、頭が高ーい、なのです。
とは言え、この銃を持った警備員は私がそんな善良なる市民だとは知らないものですから、ダメの一点張りで外に出してくれないのです。
外に出られなければホテルへも行けませんし、ホテルに着かなければビールだって飲めないわけです。そしてビールを飲めなければ、私は半狂乱になって、私自身が爆発してしまうことでしょう。
そうなったら、この警備員、あんたのことだよアンタ!あんたが爆弾犯人ということになってしまうのですよ。いいですか、そこんとこ。
と、そんなことを心の中で、しかも日本語でぶつぶつ言っていても仕方がありません。とにかくなんとかここから出なければならないのです。
そこで私は、困ったときのスーパーバイザー頼みとばかりに、あの小太りのおっさん、スーパーバイザー・クマール氏に窮状を訴えに再びエア・インディアのオフィスへ行きました。
スーパーバイザー・クマール氏は、私の顔を見ると、「なんだよ・・・またお前かよ・・・」といった感じでギロリと睨みましたが、すぐに「あー、こいつも一応客なんだよな」と気付き、遅まきながらの愛想笑いなど浮かべながら応対してくれました。
クマール氏は私のために、エア・インディアのスタッフを付けてくれました。
そのスタッフが、ここから出る手続き一切をしてくれるというわけです。
私はスタッフの後に従い、先ほどかろうじて強行突破を思いとどまった扉の前まで戻って来ました。
今度はエア・インディアのスタッフが付いているので鬼に金棒、森末に鉄棒てなわけで、まるで印籠を出す直前の水戸黄門の気分です。
さあ、しゅけしゃん、かくしゃん、この警備員をこらしめてやんなしゃい!
エア・インディアのスタッフは、警備員をこらしめる代わりに、私のパスポートを見ながら台帳のようなものに必要事項を書き込んで行きました。そして最後にサインをして、もうそれで手続きは完了しました。なにも警備員相手に大立ち回りを演じる必要などなかったのです。ぜひともしゅけしゃん、かくしゃん、そして暴れん坊将軍などに、こうした平和的解決手法というものを学んで頂きたいと思うわけであります。
でもまあ、とにかくこれで空港ロビーから無事脱出でき、ビールに一歩近づいたというわけなのです。
あとはタクシー乗り場にまっしぐらです!
インディラ・ガンディー国際空港は大都市デリーの空の玄関口ですが、そこから市内にアクセスする方法は、バスかタクシーということになります。
現在建設中のデリーメトロが将来的には空港まで延びるようですが、それはいつになるかわかりません。
そこで土地に不案内な旅行者は、どうしてもバスよりタクシー利用ということになるのですが、このタクシーがまたトラブルの元凶でありまして、その対策としてプリペイドタクシーというものがあります。
プリペイドタクシーというのは、まずタクシースタンドにある窓口で、ホテル名や行き先を告げ、その場で運賃を払ってしまうというシステムです。
この方法なら、トラブルの一要因である「運賃」でもめることはなく、また行き先(ホテル名)と乗るタクシーのナンバーを窓口の係員が控えますので、万が一のトラブルに対処できるというものなのです。
ところが、ここデリーの空港では、このプリペイドタクシーですら信用ができず、特にインドに詳しくなさそうな旅行者が少人数で利用すると、なんだかんだと理由を付けられ、目的のホテルとは違うホテルに連れて行かれたり、悪徳旅行社に連れ込まれ、脅迫まがいの方法で高いツアーに申し込まされたりするのです。
そして最悪のケースでは、殺されて金品を奪われるということもあるのです。(実際にオーストラリア人の女性が、空港敷地内で殺されてしまうという事件も発生しております)
以上のことから、私はいつも事前に迎えの車を手配しています。
プリペイドタクシーであろうと、利用は極力避け、無用なトラブルは避けるようにしているわけです。特に暗くなってからの利用は危険です。
さて、無事出発ロビーから出られたものの、すでに午後8時を過ぎて外は真っ暗でした。
大きな荷物はチェックインカウンターで預けてしまっていたのがせめてもの救いでしたが、階下に下りる階段には人影はなく、目的のタクシー乗り場にも客の姿はなく、目つきの悪い男たちが数人たむろしているだけでした。
私はその光景を目にしたときから、「うっ、これはかなりヤバイぞ(注:今流行の「すごくいい」という意味ではありません。「良くない」という意味の「ヤバイ」です)」という雰囲気を察知して、すでに尻の穴がすぼみ始めていたのですが、窓口でチケットを買い、指定されたタクシーの運転手を見たときにはさらに固くすぼみ、そしてなぜか助手席にガタイのでかい男が乗り込んで来たときには、もう二度とウ○コなどできないのではなかろうかと思われるほど、固く固くすぼみまくってしまったのでした。
タクシーはのろのろと走り出し、すぐにタクシースタンドのほの暗い、しかしそれでいて今までしっかりと私を守ってくれていた灯りの傘の下から、暗い闇の中へ這い出て行きました。
まずい・・・これはかなりまずいぞ・・・なんとかしなければ・・・
とにかく、「インドに不案内な旅行者」と見られないようにしなければなりません。
そこで私はつとめて冷静さを装いながら、ポケットから携帯電話を取り出し、ホテルを手配してくれたエージェントの男に、「今空港からプリペイドタクシーに乗った」ということを、できるだけさりげなく、しかし運転手と助手席の男にははっきりと聞き取れるように告げました。
これはなかなか効果があったようで、一瞬運転手と助手席の男が顔を見合わせたのがわかりました。
さらに私は、運転手に行き先の住所をできるだけ詳しく伝え、そしてその近くにある小さなバザールのことなども織り交ぜ「土地勘」があることを示唆し、「い、いいか。わ、私をだまそうと思ったって、ダ、ダメなんだからな。な、なにしろ私は、デ、デリーの達人で、お、おまえなんかぜんぜん怖くないんだからな」という威嚇を心の中で与えたのでした。な、なろー!
これで第一ラウンドは、7対3くらいで私の勝ちだな。ふふっ・・・
と、少し安堵しかけたのですが、早くも第二ラウンドが始まったようです。
運転手と助手席の男は二人で声高に雑談を始めました。
現地の言葉で交わされるその内容は、私にはよく分からないものでしたが、その野卑な話し振りと、下卑た笑いから、彼らの粗暴な性格が見え隠れし、緩みかけていた尻の穴が、またすぼんでいくのが痛いほどわかりました。
さらに二人は、なんの落ち度もない、ただ道を横断しようとしていただけの若者たちの前に車を寄せ、なにやら大声で怒鳴り散らすのです。わざわざ車を止めてです。
突然タクシーの運転手に怒鳴られてしまった若者たちは、そりゃあ驚きます。
みな一様に顔をひきつらせ、そしてまた、そのときの彼らの尻の穴も、さぞかしすぼんでいたことでありましょう。私にはわかりますとも、ご同輩。
とにかくそれら一連の行動は、すべて私の「本当」を見抜くためなのです。
つまり、私がどのくらいデリーに詳しく、そしてまた、いかなる脅迫にも屈せず、常に平静を保ち、さらに冗談なども言える男かどうかを試しているのです。
そして私がデリーのことなどちっとも知らないはったり野郎で、その上すぐに尻の穴をすぼめてしまうようなチキン野郎と知れば、たちまち寂しげな場所で車を止め、有り金すべて(その時点ではタクシー代を払ってしまったので250 ルピーくらいでした)を奪った上に、ケツの毛まで抜いてしまうのです。
しかし私は決してはったり野郎でもハットリくんでもありません、ニンニン。
そして決して臆病なチキン野郎や片付け上手なキチントさんでもないのです。
あまり私をなめてかかると。痛い目に遭うぞ!なろおー!
そうこうしているうちに、タクシーはあたりに人通りのない寂しげな場所で止まりました。
ええっ・・・まじっすか?
道路の端っこにタクシーを止めると、運転手はこちらを振り向いて「一分待ってろ」と英語で言いました。
い、いっぷんだな。ほ、本当にいっぷんなんだろうな。
お、おとなしく車の中で待っていたら、ちゃ、ちゃんとホテルに連れて行ってくれるんだろうな。
や、やくそくしてくれるなら、こ、ここでおとなしく待っててやるぞ・・・
タクシーを止めた傍らは、ちょっとした広場になっていて、レンガ造りの小さな小屋のようなものが建っていました。
灯りなどない真っ暗なその広場に運転手は降りて行き、そして小屋の後ろに消えて行きました。
あー、神様、あいつがこれ以上仲間を連れて来ませんように!
運転手は本当に一分で戻って来ました。
そしてラッキーなことに、新たな仲間も連れていません。
いったい彼は、あの小屋の後ろの暗がりでなにをしていたのでしょうか?
そんななぞを秘めたまま、運転手は右手を軽くズボンで拭くと、またハンドルを握り、タクシーを走らせました。
やがてタクシーは立体交差に差し掛かりました。
この立体交差を上がれば、私が行こうとしている地域への道になるはずです。
ところがタクシーは立体交差には上がらず、またまた道端に止まりました。
あー、このうそつき!
私はさっきちゃんとおとなしく車内で待っていたのにい!
車が止まると、助手席の男が降りて行きました。
どうやらその男の家がこの近くらしく、ついでにタクシーに乗せてもらっただけだったようです。
降り際、男は私に、「じゃ、気をつけてな」と言いましたが、その男さえ降りてしまえば、もうそんなに気をつけなくても平気なんじゃないかなあと、ようやく尻を緩ます私だったのであります。
インド滞在は、もう少し続く。