その後いかがお過ごしでしょうか。
まだまだ寒い日が続いておりますが、関東地方は今度の日曜日あたりから気温がぐっと上がり、18度くらいになるとの予報が出ております。
とまあ、温かくなってくれるのはいいのですが・・・スギ花粉がねえ・・・
でもスギ花粉だって一定量飛ばさなきゃ気が済まないでしょうから、どっちみち撒き散らすんならいっそのことどばっ!と一度に撒いて終わりにしてもらいたいものです。
そうすりゃその日だけ家にこもって頭から布団をかぶって寝てますので。
まあスギの方でもいろいろ都合があってそう簡単にはいかないでしょうから、やっぱりこの時季は毎日花粉が、飛びます!飛びます!なのであります。
で、飛びます!飛びます!と言えば坂上二郎さんなわけですよ、コント55号のね。
いやあ、突然の訃報には正直驚きました・・・
私が初めてコント55号を見たのは映画館でした。
もちろん「見た」と言っても生のご本人ではなく、映画に登場する姿です。
映画の題名は忘れてしまいましたが、たしか忍者を題材にした喜劇映画だったと思います。
実はこのあたりの記憶に関しては、やはり映画で初めて見たドリフターズと混同している可能性もあり、いささかあやふやなのです。
さらにこれもドリフターズとの「出会い」ともかぶるのですが、そもそも私はその時その喜劇映画を見るために映画館に行ったのではなかったのです。
その映画と抱き合わせで同時上映されていた怪談映画がお目当てだったのです。
なので映画館に行ったイキサツは「あれ?これ前にこのメルマガで読まなかった?」と思われるかもしれませんが、そんな小さなことは気にせず、あくまでも「初めてのお話」または「別物のお話」としてお読み頂きたいと思う次第であります。
では、続けます。
当時私はまだ小学校の4年生くらいだったと思いますが、クラスの友達のお母さんが映画館のモギリ(入り口で切符を半分にちぎる人ですね)をしていたことから、その友達に誘われてタダで映画を見に行ったのです。
その頃は子どもにとっても映画は一大娯楽でした。
すでにどの家庭にもテレビが行き渡っていた時代でしたが、そのほとんどはまだ白黒のブラウン管で、画面も四隅の丸まった小さなものでしたから、映画館の大きなスクリーンに映し出される色付きの映像はそれはそれは美しく、またそれを暗闇で見るということが、子どもには一層わくわくするものだったのです。
なので映画を見に行くというのは一大イベントであり、春休みや冬休みといった学校が長期休みになる時期に掛かる子ども向けの「まんがまつり」などという映画を見に行くときは、朝早くから映画館の前に並んで開館を待ち、開いた後は素早くいい席を確保する!というのが鉄則でした。
ところが友だちに誘われたのは平日の放課後でしたから、子どもの心境としては「いくらタダとはいえ、こんな普通の日に突然映画館に行ってしまってもいいものなのだろうか?」という、誰に対してともわからぬ小さな罪悪感などが去来していたりしたのであります。
とにかくモギリに立っていた友だちのお母さんのさりげない誘導で館内に入り、まんがまつりの時とは比べ物にならないくらい空いた席に余裕で座り、すでに始まっていた映画を途中から見たのですが、それがコント55号だったというわけです。
スクリーンの中狭しと暴れ回るコント55号はものすごく面白く、途中から見たというのに私はあっという間に映画に引き込まれて行ってしまいました。
単純な私はそれですっかりコント55号の虜になってしまいました。またたまたまその出会いがガラガラの平日の映画館だったということもあり、きっと同級生の中でコント55号を知っているのは私とその友だちの二人くらいだろうと思っていたものですから、違う友だちの口から「コント55号がさあ」という話題が出た時には心底驚いてしまいました。
なんとコント55号はすでに有名だったのです。
まあ考えてみれば映画の主役を張ってたわけですから、無名のわけがないのですが・・・なんせ子どもだったもので、はい・・・
我が家は決して教育一家とか、しつけに厳しい家庭というわけではありませんでしたが、なぜかそれまでコント55号が出ている番組というものを見た事がなかったのです。
なのでその友だちの口をついて出たコント55号の話題で初めて、彼らがテレビにも出ているということを知り、さっそく次の土曜日に「コント55号の世界は笑う」という番組を見たのでありました。
コント55号はテレビの中でもやはり面白く、私はますますコント55号に心酔して行ったのですが、時代は間もなく土曜夜8時の主役の座を、コント55号からドリフターズへと替えて行ってしまい、クラスの話題も「世界は笑う」の裏番組として登場した「8時だよ!全員集合」に変わって行ったのでありました。
しかし私はその後も頑なにコント55号の支持を変えず、一緒に映画を見に行った友だちと二人、クラスの少数派となりながらも「『コント55号』の方がぜったい面白いよなあ」と確認し合い、「世界は笑う」が最終回を迎えるまで決して「全員集合」を見ることはなかったのであります。
その後は私もあまりコント55号の番組は見なくなり(レギュラー番組自体が少なくなったのかもしれませんが)、次第に興味もなくなって行ってしまったのですが、中学生になってラジオの深夜放送を聴くようになった頃、たまたま合わせたダイヤルでやっていた「どちらさまも欽ちゃんです」という番組に、再び衝撃を受けたのであります。
「どちらさまも欽ちゃんです」は、特定のお題に対してリスナーから送られて来たハガキを紹介するという番組で、後に「欽ちゃんのドンと行ってみよう!(通称「欽ドン」)」という形で一般的に知られるようになった番組の元祖です。
で、当然と言うか持って生まれた性分というか、私もその番組にせっせとハガキを出し始め、ちょうど3年ほど経った頃、番組が「欽ドン」(まだラジオ番組でしたが)と変わってはいましたが、ようやく番組でハガキが採用され、欽ちゃん直々に私の名前が読み上げられ「欽ドン賞、決定!」と言われた時の感慨は、それはもう筆舌には尽くしがたいほどのものだったのであります。
あれれ?
いつの間にやら「コント55号」から「欽ちゃん」に話題の中心が変わってしまっておりました。すんません。
二郎さんに関して言えば、いまや二郎さんの代名詞であり、コント55号の代表的ギャグとされている「飛びます!飛びます!」も、当時のテレビ番組(「世界は笑う」ではなく、火曜日の7時頃やっていた公開録画の番組だったと記憶しております)で見ておりました。
確かあの両手で作るキツネのような形はそれぞれが飛行機で、管制塔への「これから飛びます」という交信を、一人で二機分やらなければならないため、早口で「飛びます!飛びます!」とやったのが始まりだったと思います。
こうして文字にしてみれば、「なにそれ?」ってことになるようなギャグではありますが、執拗な欽ちゃんの振りに何度もぜいぜい言いながら繰り返される「飛びます!飛びます!」は、それはそれは可笑しくて、腹を抱えて笑ったものでした。
そんなコント55号も、二郎さんがお亡くなりになったことで、二度と見ることができなくなってしまったわけです。
今回の坂上二郎氏の訃報に触れ、コント55号は私にとってただ笑わせてくれるコメディアンという存在に留まらず、少年期から青年期にかけてのヒーロー、いえ、太陽のような大きな存在であったのだということが、いまさらながら思い知らされたのでありました。
坂上二郎氏のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
*このメルマガの後半へ続く
〔本題〕実際のメルマガではここに新着情報などが載ります。
*このメルマガの前半からの続きです。
といったところで今回のメルマガはこれにておしまいです。
昔から「笑う門には福来る」とか「笑いは健康の源」なんてことを言いますが、最近では本当に笑いが健康につながるという研究結果も出ているようで、日頃から大いに笑って暮らして行きたいものだと思います。
それでは最後にこれで、みんなで大笑いしてみましょう。
いいですか? 行きますよ。
「飛びます!飛びます!」
わっはっはっはっはっ!
それではまた来週まで、
ごきげんよう!