〔当時のメモより〕 *金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。 5/22(火) アーマダバード 晴 気温32℃ 5時に目が覚めた。 明日のCheck Outを午後9:00にしてもらう。 昨日の朝出したランドリーサービス オートリキシャでガンディーアシュラム 絵ハガキ Rs.50、地図 Rs.35 |
【以下の解説は2009年10月26日のものです】
今朝もまた5時に目が覚めてしまいました。
お腹の具合は依然として良くなく、正露丸を正規の容量より多めに飲み、梅干も3個食べ、なんとか胃腸の調子を取り戻そうと必死です。朝食は昨日買ったクッキーだけで済ませました。
明日はアーマダバードを発つ日なのですが、列車の出発時刻は夜の10時過ぎと遅いため、チェックアウト(午前11時30分)を遅くしてもらおうとフロントに掛け合いました。
結局こちらの希望の午後9時のチェックアウトにしてもらうのに、一泊分の約半額にあたる300ルピーを支払うことになりましたが、なんせ体調が思わしくないので、なるべくギリギリまで部屋にいられるのはありがたいことです。
このホテルでは、自分で洗濯するのは下着だけにして、面倒なズボンとシャツはランドリーサービスを利用しました。
これもルームサービス同様、日本的な感覚からするととても贅沢に思えてしまうのですが、ランドリーサービスといってもドライクリーニングでなければ結構安いもので、ズボンとシャツで計17ルピーでした。
ただし、このレベルのランドリーサービスは、そこらの洗濯場(川の場合もあります)で普通に洗濯しますので、生地の変色(黄ばみというか、茶ばみ(?)というか・・・)や傷み、ボタンの欠けなどのリスクを伴いますので、利用にはある程度の覚悟が必要なのです。
さて、今日はMくんと一緒にガンディー・アシュラム、正式名サーバルマティー・アシュラムに行きます。
インド独立の父、そしてマハトマ(偉大なる魂)と尊称されるモハンダス・カラムチャンド・ガンディーは、1969年グジャラート州ポルバンダルで生まれました。
イギリス留学で得た弁護士の資格を持って渡った南アフリカに於いて、抑圧されるインド人の地位向上運動に目覚めたガンディーは、やがて母国インドに帰国し、独立運動の元となる運動を開始するのですが、その地こそ、ここアーマダバードだったのであります。
*アシュラム自体は、最初は現在とは違う場所に作られ、後に現在地に移ったとのことです。
サーバルマティー・アシュラムは、その名の通りサーバルマティー川のほとりにありました。
市内中心地の我がホテルからは、オートリキシャで20分ほどでした。ドライバーは例の換算表とメーターの数字を見比べ50ルピーを要求して来ましたが、乗っていた時間からしてちょっと高いような気がします。しかしまあ、そこはガンディーゆかりの地のドライバーですから信用することにして、言い値を払いました。
サーバルマティー・アシュラムに入るには特にお金はかかりません。入場無料です。
このアシュラムは、ガンディーに関する資料や展示物を広く一般に開放しているのですが、決して歴史的記念館というだけの存在ではなく、今もまだ、行動の場のアシュラムとして、機能している所なのであります。
門をくぐり内部に入ると、左側が展示スペースとなっていて、すでに何人かの人が見学していましたが、全体的にかなり静かで、なんだかちょっと緊張してしまいます。当時の(雰囲気の)まま残されているガンディーの居室や、彼と彼の運動にまつわるもろもろの品物、解説付きの写真パネルなどを見て回り、奥の庭に出ますと、こんもり盛りあがった芝生の小山の上にガンディーの像が座り、その周りの木々にはリスやカラスが遊び、さらにその向こうに流れるサーバルマティー川では、水牛が気持ち良さそうに水に浸かっていたりと、なんとものどかな空気が流れています。展示スペースとは反対の側には、二棟の白い平屋の建物が建っていて、それがなんだか自分が子どもの頃に通っていた小学校の古い木造校舎を思い出させ、妙に懐かしい気持ちになってしまいました。使われている建材やデザインなど、外観ははまったく違うのですが、なんだかそのたたずまいがそう思わせるのです。またその建物の前では、このアシュラムに起居する子どもたちなのでしょうか、数人の子どもたちがクリケットに興じており、それもまた子どもの頃によくやった草野球の思い出と重なるのであります。そんなのんびりとした風景などを写真に撮っておりますと、やはりここに見学に来ていたインド人家族から声を掛けられました。
その家族はおじいさんとその息子夫婦、それに子どもが何人かといった陣容で、まあインドではよく見かける一家総出の家族旅行の一団のようでしたが、私に声を掛けて来たのはそのおじいさんで、手にしたカメラを私に差し出し何か言っているのです。
なにぶん現地の言葉(ヒンディー語かグジャラーティー語か、はたまたそれとはまた違う言葉か・・・)なので良くはわからないのですが、身ぶり手ぶりからするとカメラが壊れてしまい、それを直して欲しいと言っているようです。見るとそのカメラはかなりの年代物のコンパクトカメラ(確かYASHICA)でした。おそらくこのおじいさんは、私が日本人であり、また一眼レフカメラなどをぶら下げていたので、「日本人なら日本のカメラを直せるかもしれない」と思ったのでしょう。
しかし残念ながら私はカメラ修理の技術を身に着けていませんでしたので、そのカメラを手にとってみたもののどうしていいのかわからず、どうにも持てあましていました。そんな私をもどかしく思ったのか、おじいさんはさらにまくし立てるように何かを言いながら、再びそのカメラを手に取るや、やおら裏ぶたを開けようとしたのです。もちろんそのカメラはデジタルカメラなんかじゃありません。中にはフィルムが入っているのです。フィルムは光に当たると表面の乳剤が変化してしまうわけです。つまりまあダメになってしまうわけです。ですから横で見ていた息子はびっくりしてそれを止めようとするのですが、おじいさんは息子を一括するとともに、制止しようとする手を振り払い、ついに裏ぶたを開けてしまったのであります。
おじいさんはカメラの内部を私に見せ、まだ何かしきりに訴えているのですが、私はその完全に露光してしまったフィルムと、その周りで唖然として立っている家族を交互に見ながら、「あ~あ・・・、この家族がどこから来たのかは知らないけど、おそらくここに来るまでにも何枚か写真を撮っていたんだろうになあ・・・」と、我がことのように残念な気持ちになってしまったのであります。
でも、今でもインドでは年寄りを敬い、たとえこのような「家族の想い出の消滅」という危機に接してもなお、年寄りに対して強硬な手段には出ないということがわかり、そのことがせめてもの救いでした。
結局おじいさんの必死の願いもむなしく、カメラは直らず、さらにフィルムまでダメになってしまったこの家族が、その後どうしたのかは、その場から素早く立ち去ってしまった私にはわからないのであります。
う~ん、今から思えば、私が一枚写真を撮って送ってあげればよかったのかなあ。
そうすりゃあのおじいさんも、「ほら見ろ、ワシが必死にお願いしたから、こうして写真が送られてきたじゃないか」と言え、ますますその権威が上がったことだったでしょう。*上の写真は別のおじいさんです。
つづく
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