知り合いの家の書棚で見つけて読み始めたのだが、何ページも読み進まないうちに読むのをやめてしまった。
いや、内容がつまらなかったのではなく、怖くなってそれ以上読み進められなくなってしまったのである。
この本の内容はその題名の通り、著者である藤原新也氏が1968年と1970年にインドをさまよい歩いた時の話である。
ではそんな「旅行記」のどこが恐ろしかったのかというと、それは河を流れゆく死体の描写なのであった。
それが文章による表現力というものなのだろうが、その時の私にはその「死体」が恐ろしかった。またそんなものが流れていく「インド」という国の得体の知れなさが恐ろしかった。さらにはそういう文章を書く「著者」自身が恐ろしかったのである。
なんせ自分と同じくらいの若者(著者がインドを旅した時点、また著述した時期での年齢ですね)が書いているわけで、なんだかいきなり「貴様ぁ~!平和面してのうのうと暮らしおってぇ!」と胸倉をつかまれて怒鳴られたような気分だったのである。
そしてあれからいく年月、なんの因果かインドに携わる仕事に就いた頃、この本を譲り受けたのであった。しかもあの若かりし頃手に取ったまさしくその本なのである。
奥付を見ると「1982年5月20日 第1刷発行(朝日選書版)」とあるので、私が一度読みかけたのもそのころかと思われる。
で、実はこの本を譲り受けたあとも、私はしばらく読もうとしなかった。
やはりあの第一印象が私の記憶に強く刻み込まれており、ぷちトラウマみたいになっていたのである。
また著者のことをあまりよく知らない(もちろん名前は知っていたが、その人となりというものがよくわからない)ということも一因であった。つまりまあ、きっと怖いひとなんだろうなあ・・・と思っていたのである。
しかしある時(確かとんでもなく早い時間帯、朝の5時とかに)偶然テレビで著者を見たのであった。
それは写真家でもある著者が、どこかの島の猫たちの写真を撮っている映像であったのだが、初めて動いている著者を拝見し、「あー、特別怖い人じゃないんだ」ということがわかった。なにしろ猫の写真を撮っているのである。怖い人のはずがないのである。
そこでようやくもう一度読んでみようという気になったのであった。
あらためて読んでみると、なぜあの頃あれほど怖がったのかわからないほどおもしろかった。
まあ私が何度もインドに行くようになっていたということもあるが、少なくとも読み進められなくなるような恐ろしい内容では決してない。
とにかくよく観察され描写されている。
中でもヒンディー語の語感について書かれている箇所には、なるほどと感心して(私が言うのは実におこがましいが)しまった。
著者曰く「ヒンドウ語は、大地の上で響きわたる時、初めてその言葉の持つ美しい響きを発揮するかのようだ。」とある。
このくだりを読んだとき、インドの大地でのびやかに生きる人々の姿を見たような気がした。
とまあ、なかなか刺激の強い個所もあるけれど、それだけ読み応えのある本なので、まだお読みでない方はぜひ一度お試しあれ。