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ボンベイにおけるガンディーの活動拠点:ムンバイ

         
  • 公開日:2010年8月13日
  • 最終更新日:2022年8月28日

ここはムンバイにある「マニ・バワン」と呼ばれる家です。かのマハトマ・ガンディーのムンバイ(当時はボンベイ)での滞在先であり、インド独立運動の根幹となった不服従運動もここで生まれたと言われています。

現在はガンディー記念館となっているこの家は、ムンバイ中心部の閑静な住宅街に建ち、さすがに見学者の出入りは多いものの、一般的な観光名所に比べてずいぶん落ち着いた感があります。

三階建のこの家の中には、ガンディーにまつわる数々の資料が保存、展示されていて、当時の各国指導者(ヒットラーやルーズベルトなど)に宛てた書簡などもあるのですが、私が一番興味を惹かれたのはこの書類でした。これは1931年にロンドンで開催された第二回円卓会議に、ガンディーが出席するために作成された渡航許可申請書です。

まあ書式や内容はごく普通のことが記載されているだけなのですが、「渡航先」の項の「イギリス、フランス、イタリア、スイス」というのを見ると、今まで伝記本の中の出来事でしかなかったことが、なんだか急に現実味を帯びて来ます。
ちなみにガンディーはこの時ロンドンでの円卓会議に出席したのち、スイスのロマン・ロラン邸に滞在したり、イタリアでムッソリーニと会談したりしています。

この書類の中で特に注目すべき点は、ガンディーの職業が「農民(Farmer)となっていることです。(ただしカッコ書きで「弁護士」とも記載してあります)
このことから、ガンディーはインド独立運動にささげたその生涯において、自らのスタンスを「政治家」ではなくあくまでも「いちインド人」としていたことがよく解ります。

またその他にも国籍が「British」となっていることや、身長が「5フィート4インチ」であることなどがこの書類から判り、さらに生年月日の項には1869年生まれのはずなのに「1870」と記載(しかも月日の記載なし)されているのを見ると、もしかしてこの書類の作成者(おそらく役人だと思いますが)は、ガンディーという人物をたいして重要に思っていなかったのではないか、などという想像もできてなかなか楽しいのであります。

さて、マニ・バワンの三階には、かつてガンディーが起居した部屋が当時のままに残されています。部屋の中にはのちに飾られた(であろう)絵などを除けば必要最低限の物しかなく、ガンディーの質素な生活ぶりが窺えます。そしてガンディーがこの家で初めてその使い方を覚え、やがて独立運動の旗頭ともなって行ったチャルカ(糸車)が、いまはもうその本来の役目に就くこともなく、静かにじっと休んでいるのでありました。

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