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インド:独立インド建国の父ガンディーのお話し・その2

         
  • 公開日:2007年1月30日
  • 最終更新日:2022年6月25日

ここはデリーにあるガンディー・スミリティ博物館です。デリーにはこの他にも、ガンディーを荼毘にふしたラージ・ガートの近くに、ガンディー記念博物館というものがありますが、こちら「スミリティ」の方は、インドの財閥のひとつビルラの邸宅で、ガンディーがその生涯の最後の時間を過ごした所です。

1914年、ガンディーはインドに帰国し、いよいよ母国での活動を開始します。

その活動は通行税廃止に始まり、藍小作民の救済、ローラット法反対、スワデーシ(国産品愛用)、そして有名な塩の行進へと突き進んで行きます。

ガンディーの闘争方法は一貫した「非暴力」として良く知られていますが、その根底にあるものは「サティアグラハ(真理の固持)」と呼ばれるものです。
曰く、真理は力であり、それを固持し何ものをも恐れない態度を示す「非暴力」は、決して弱者の武器ではない、とのことなのです。

そんなガンディーの闘争は、民衆を巻き込み次第に大きくなって行き、やがてインドの独立を勝ち取るわけですが、その一方で、ガンディーの政策に不満を持つ勢力も現れて来ます。

1948年1月30日、ビルラ邸裏庭で行われる野外祈祷集会出席のため、集まった民衆の中を歩いていたガンディーは、ヒンドゥー教極右派の青年の放った3発の凶弾に倒れます。

死の前日、ガンディーは従者のひとりにこう語っていました。

「もし私が何者かの凶弾に倒れるようなことがあり、神の名のみを言い息をひきとるのであれば、それは私の願いをまっとうしたことになるのである」

はたしてガンディーは凶弾に倒れ、最期の言葉を残し息を引き取りました。

「へー、ラーマ(おお、神よ)」

ガンディーは自らの願いをまっとうし、その波乱に満ちた78年の生涯に幕を閉じたのであります。

上の写真は、まさにガンディー最期の足跡です。

ガンディーはその日、祈祷場所へ向かう途中凶弾に倒れたのですが、その場所が写真にある白い石のある場所です。そしてその場所へ続く小道には、ガンディー最期の「足跡」がつけられているのです。

デリーに行く機会がありましたら、一度はここを訪れ、そんな足跡を見ながら、偉大なる魂ガンディーに思いを馳せるのも良いかもしれません。

*写真は1987年のものです。

真鍮製のアンティーク弁当箱