2001年インドの旅・目次

*これはブログ形式で書いた記事の目次です。

第1回・2001年5月10日(木)成田空港
第2回・2001年5月10日(木)機内
第3回・2001年5月10日(木)着陸
第4回・2001年5月10日(木)デリー
第5回・2001年5月11日(金)デリー
第6回・2001年5月12日(土)デリー
第7回・2001年5月13日(日)デリー
第8回・2001年5月14日(月)デリー
第9回・2001年5月15日(火)デリー
第10回・2001年5月16日(水)デリー
第11回・2001年5月17日(木)デリー
第12回・2001年5月18日(金)デリー
第13回・2001年5月19日(土)デリー
第14回・2001年5月19日(土)デリーからアーマダバードへ
第15回・2001年5月20日(日)デリーからアーマダバードへ
第16回・2001年5月20日(日)アーマダバード
第17回・2001年5月21日(月)アーマダバード
第18回・2001年5月22日(火)アーマダバード
第19回・2001年5月22日(火)アーマダバード
第20回・2001年5月23日(水)アーマダバード
第21回・2001年5月23日(水)アーマダバードからムンバイへ
第22回・2001年5月24日(木)ムンバイ
第23回・2001年5月24日(木)ムンバイ
第24回・2001年5月25日(金)ムンバイ
第25回・2001年5月26日(土)ムンバイ
第26回・2001年5月27日(日)ムンバイ
第27回・2001年5月28日(月)ムンバイ
第28回・2001年5月29日(火)ムンバイ
第29回・2001年5月30日(水)ムンバイからゴアへ
第30回・2001年5月30日(水)パナジ
第31回・2001年5月31日(木)パナジ、マプサ
第32回・2001年5月31日(木)パナジ
第33回・2001年6月1日(金)アンジュナビーチ
第34回・2001年6月1日(金)アンジュナビーチ
第35回・2001年6月2日(土)アンジュナビーチ
第36回・2001年6月3日(日)アンジュナ→マプサ
第37回・2001年6月3日(日)パナジ→バンガロール
第38回・2001年6月4日(月)バンガロール
第39回・2001年6月4日(月)バンガロール
第40回・2001年6月5日(火)バンガロール
第41回・2001年6月6日(水)バンガロール
第42回・2001年6月7日(木)バンガロール
第43回・2001年6月8日(金)バンガロール
第44回・2001年6月9日(土)バンガロール
第45回・2001年6月10日(日)バンガロール
第46回・2001年6月11日(月)バンガロール
第47回・2001年6月12日(火)バンガロール
第48回・2001年6月13日(水)コーチン
第49回・2001年6月14日(木)コーチン
第50回・2001年6月14日(木)コーチン
第51回・2001年6月14日(木)コーチン
第52回・2001年6月15日(金)コーチン
第53回・2001年6月15日(金)コーチン
第54回・2001年6月15日(金)コーチン
第55回・2001年6月15日(金)コーチン
第56回・2001年6月16日(土)コーチン
第57回・2001年6月16日(土)コーチン
第58回・2001年6月16日(土)コーチン
第59回・2001年6月17日(日)コーチン
第60回・2001年6月18日(月)コーチンからトリヴァンドラムへ
第61回・2001年6月19日(火)トリヴァンドラムからコヴァラムビーチへ
第62回・2001年6月19日(火)コヴァラムビーチ
第63回・2001年6月20日(水)トリヴァンドラムからカニャークマリへ
第64回・2001年6月21日(木)カニャークマリ
第65回・2001年6月22日(金)カニャークマリ
第66回・2001年6月23日(土)チェンナイ
第67回・2001年6月24日(日)チェンナイ
第68回・2001年6月25日(月)チェンナイ
第69回・2001年6月26日(火)チェンナイ
第70回・2001年6月27日(水)チェンナイ
第71回・2001年6月28日(木)チェンナイ
第72回・2001年6月29日(金)チェンナイ
第73回・2001年6月30日(土)チェンナイ
第74回・2001年7月1日(日)チェンナイ
第75回・2001年7月2日(月)ハイダラバード
第76回・2001年7月3日(火)ハイダラバード
第77回・2001年7月4日(水)ハイダラバード
第78回・2001年7月5日(木)ハイダラバード
第79回・2001年7月6日(金)~7日(土)ハイダラバードから列車移動
第80回・2001年7月7日(土)カルカッタ
第81回・2001年7月8日(日)カルカッタ
第82回・2001年7月9日(月)カルカッタ
第83回・2001年7月10日(火)カルカッタ
第84回・2001年7月11日(水)カルカッタ
第85回・2001年7月12日(木)カルカッタ
第86回・2001年7月13日(金)カルカッタ
第87回・2001年7月14日(土)バラナシ
第88回・2001年7月15日(日)バラナシ
第89回・2001年7月16日(月)バラナシ
第90回・2001年7月17日(火)デリー
2001年インドの旅を終えて

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インド:2001年インドの旅を終えて

実に長いこと「2001年インドの旅」という題名で書かせて頂きました。

最新のインド情報ではなく、かといって昔懐かしいというほどの時を経ていない、なんとも中途半端な旅行記にお付き合い頂きありがとうございました。

この旅では結構マメにメモを取ったり、チケットやレシートを取って置いたりしておりましたので、いつかそれを整理しようと思いつつ今日に至り、ようやくその気になったというだけでダラダラ書いて来たわけです。
日付の浅いうちは当時のメモ書きに新たに注釈を付けたり加筆するという形を取っていたのですが、最後の方は当時のメモ書きの記述が長く、ブログの本文は不要なくらいになってしまいました。
でもまあ私としてはこれで一応整理ができたな(雑ですけど)という気がしております。

さて、この「2001年インドの旅」という題名は、あのスタンリー・キューブリック監督で映画化された「2001年宇宙の旅」をまねして付けたものです。まあどちらも「そのまんま」のネーミングですし、また両者の内容にはまったく関連性がありませんので、別にそんなのどーだっていいやとお思いでしょうが、実は今回またもや3カ月ほどインドに行って来ることになり、おそらくそのうちこのブログでその旅のことを書くことになると思うのであります。
で、そうなるとその題名は「2010年インドの旅」になろうかと思うのですが、そうするとまた「2001年宇宙の旅」の続編「2010年宇宙の旅」(原作小説の邦題で、映画の邦題は単に「2010年」です)とかぶるじゃないですか。ええ、内容はやっぱりぜっんぜん関係ないんですけどね、はい。

そんなわけで、来週末からインドに行きます。
大まかなコースは「2001年インドの旅」をなぞるものになります。(訪問順や移動方法などの違いは多々ありますが)
あえて同じ町を訪れることで、この9年間で変わったもの、逆に変わらなかったものが見えてくるのではないかと思うわけです。そしてそれはインドやインド人の変化というものだけではなく、自分自身においてもどう変わって来たか(変わってしまったか)を確認することになるのではないかと思うのであります。

そんなインドレポートは、可能であれば現地から(このブログで)発信したいと思っております。
写真を交えての詳細な報告は帰国後(5月末)になると思いますが、それまでも、たまにはこのブログを覗きに来て頂きたいとお願いする次第であります。

それでは元気に、行って参ります!

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インド:2001年7月17日(火)デリー・2001年インドの旅第90回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/17(火) デリー 曇り 気温朝28℃→32℃

6時少し前に、周りの人が動き出した気配で目が覚める。
外はもう都市が近いらしく家がたくさん見える。雨が降っている。

チャイを飲み身支度を整えると、すぐにニューデリー駅に到着。6:45頃。

駅は早朝だからか意外に客引きがおらず、リキシャの客引き程度であった。
メインバザールもまだ人もまばらで歩きやすい。
ホテルの客引きが寄って来て、スターパレスの名刺を見せる。同じ名刺を見せ、予約がすでにしてある旨伝えると、おとなしく引き下がった。
しかしその先にいたじいさんはしつこく、予約をしてあると言うのに、先に立ちスターパレスに連れて行く。しかしフロントの人が我々の顔を覚えており、じいさんは怒鳴られ追い返される。じいさん、入口付近でまだ未練がましくこっちを見ていた。

部屋は約束通り403号室を空けておいてくれた。他は満室とのことであり、予約をしておいてよかったと思う。
お湯はNo.9にTelすれば元のスイッチを入れてくれるとの事。どうりで前は出なかった訳だ。
快適なシャワーを浴び、ヒゲを剃る。

10時過ぎ、出掛ける。

出がけに近くの店とチャイ屋に写真を渡す。
チャイ屋ではチャイを飲みしばらく休む。

そのままステート・エンポリアムまで行く。
途中でトウモロコシを食べる。Rs.5。

3:50帰路に着く。
家にTel.、途中切れたりして3回かけ、Rs.83。
ネットカフェはいっぱいで待つこと40分。
ようやくメールチェックができた。

ホテルで水シャワーを浴び、ルームサービスでガーリックチキン、ライス、チキンスープと水を頼む。

朝目が覚めると、すでにシークのおっさんはいませんでした。

ベッドを片づけるとすぐに上段の人も降りて来て、シートに並んで座りました。
とは言え、この人とは会話はまったくなく、ただ二人で黙って前の席でまだ寝ているMくんを意味もなく見つめているだけでした。
そんな二人の視線を感じたのか、間もなくMくんも薄眼を開け、じっと自分を見つめる四つの目にちょっと照れたようにしておりました。

ニューデリー駅には6時45分頃到着しました。
まだ完全に動き出していない早朝のニューデリー駅に降り立つと、なんとも懐かしい気持ちが込み上げて来ました。2か月前にはこの駅の外国人専用切符売り場にもなかなか行きつけなかったというのに、今はまるで故郷に帰って来たような気分です。

それはホテルも同じ事で、すでにコルカタ(カルカッタ)から以前と同じ部屋に泊まりたいとリクエストを入れていたこともあり、2か月ぶりに入った部屋は本当に自分の家に帰って来たように思えました。

インド・メインバザールの宿の部屋からの眺めこれで今回の旅の振り出しの場所(正確には自宅が「振り出し」ではありますが)に戻って来たことになり、約70日間、移動距離約8,500kmの旅は一応の終りとなります。
この旅では特に目に見える成果というものはなにもないのですが、この歳にしてこんなにもたくさんの「初めての経験」をしたり、「新しい知識」を得られるとは思ってもみませんでした。なにしろ旅を終えて戻ったこのホテルで、シャワーを使う際にはフロントに電話するとボイラーのスイッチを入れてくれるという「新事実」を知ったほどなのです。
まっ、できればインド到着初日にその言葉が聞き取れていたなら、この旅で泊まったほとんどのホテルで快適なシャワーを浴びることができたわけですけどね。

さらにこの旅では、情け容赦なく襲いかかるインド人のスルドイ攻撃や、思いもよらない親切な行為に、その都度本気で怒ったり喜んだりできた(させられた)ことが、今となって思えばなかなか貴重な体験だったのではないかと思うわけです。

とにかくです、おそらくこの旅で私は少しは成長できたのではないかと思うわけでありまして、この場をお借りしてお礼を申し述べさせて頂くのであります。

実に勉強になりました!インドの国よ!
大変お世話になりました!インドの人たち!

本当にありがとうございました!

おしまい

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インド:2001年7月16日(月)バラナシ・2001年インドの旅第89回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/16(月) バラナシ うす曇り 気温29℃

5時前にはもう目を覚まし、寝たまま窓から外をうかがったり、またウトウトしたりしていた。
ガンジス河の朝日を見たいと思ったのだが、雲が多くて見られなかった。

午前中は荷物をまとめ、バルコニーから河をながめたり、家屋の上で遊びまわるサルを見て過ごす。サルはとてもいたずらで、特に子ザルなどは屋上の洗濯物を二匹がかりで引きずり下ろしたりしている。

11:30 チェックアウト 1,050ルピー

うろ覚えの道でなんとか郵便局にたどり着く。
また同じレストラン「アンカー」にて昼食

チキンオニオンスープ Rs.30
チキンチョーメン Rs.35
ミネラルウォーター Rs.12

注文 11:50
出来上がり 12:45

スープが出て来ず催促する。注文もれらしくこれから作る模様。早くするように言うと10分程で持って来た。やればできるのだ。

ゴードウリヤー交差点まで行き、リキシャの客引きに連れられて行くと、サイクルリキシャであった。
20分で行けるとの答えに乗ってみると、乗り心地悪し。リキシャワーラーを見ているだけで疲れる。
結局25分かかり到着。
日本製品をねだられ、ノート(小)2冊をあげる。

列車はすでに入線しており、自分の車両を見つけて乗り込む。

定刻に出発。
田園風景の中を走って行く。
しばらくして「スナック」の注文を受けに来た。コーヒーだけを注文したつもりがSetになっていたらしく、パン2枚にバターとケチャップ。丸いコロッケ状のものは、何の香辛料か匂いが少し気になり、あまりおいしくない。パンにバターをつけ、コロッケをはさんで食べた。

4人用の下段二つを確保できた今回だが、周りはなんだか胡散臭そうな人が多い。
向かいの上段は押しの強そうなシーク教徒の太ったおっさんだし、通路を挟んだ席のおやじもラジオをかけたり勝手にファンを回したりひどい。
とにかく9:30無事ベッドを作り、寝ることができそうである。

ガンジス河を一望できる部屋で迎えた朝でしたが、残念ながら朝日を拝むことはできませんでした。
インド・ヴァラナシのガンジス河水量の多さからも、ここはどうも雨季に来るところではなさそうです。

今日は早くもバラナシを発ち、いよいよこの旅のゴールとなるデリーに向かいます。

荷づくりも早々に済ませ、チェックアウトの時間まで外の景色を眺めて過ごしました。
ここは本当にサルの多い街で、ごちゃごちゃ建ち並んだ家の屋根づたいに何匹ものサルが移動して行くのが見えます。
すぐ近くの家の屋上では、二匹の子ザルが洗濯物のシーツに飛びつき、力を合わせて(?)そいつを引きずり下ろしていました。子ザルにしてもそんなことしたって何の利益にもならないわけで、これはただ単に悪戯を楽しんでいるだけと思われ、やはりサルは知能が極めて高いのだなあと妙に納得したのであります。

ホテルをチェックアウトし、昼食を食べに行きました。
結局バラナシではここ以外で食事をしておりません。しかもここはいつもがらんとして客などほとんどいないくせに、注文してから料理が出て来るまでに恐ろしく時間がかかるのです。簡単な料理なのに1時間くらい待たされるのです。
そんなレストランに今日もまた性懲りもなく入ってしまいました。まったく自分のことながら実にワンパターンであきれてしまいます。

今日は列車の時間が決まっているのであまり悠長に料理が出て来るのを待ってはいられないのですが、それでもまだ2時間はたっぷりありますので大丈夫でしょう。
と、たかをくくって料理を待つこと約1時間、ホント、わざと1時間経ってから出すように調整しているんじゃないかと思うほどの正確さで料理が出て来ました。
しかしです、頼んだはずのスープが出て来ません。聞いてみるとどうも注文が抜けていたようです。列車の出発時間が14時10分で、今はもう12時45分を回っております。駅までの移動を考えると、スープが出て来るのにもう1時間待つことなどできないわけです。
そこでちょっときつく、「いいか、早く作って持って来いよ!」と申し付けましたところ、なんとわずか10分でスープを持って来たではありませんか。
なんだよ・・・やればできるんだったら、普段からそのくらいのスピードでやれよ。客の回転率って言葉を知らないのか?まあここは回転しなくてもいつもがらがらだけどね。

たとえ10分とは言えいつもより余計に時間がかかってしまい、ゴードウリヤー交差点までやって来た時にはすでに時刻は13時20分になっており、列車の出発まで40分しかなくなってしまいました。
これは早いとこオートリキシャをつかまえて、少しくらい高いこと言われても乗ってしまおうと思っていると、ひとりのじいさんが近づいて来て「ワシのリキシャに乗らないか」と言うではありませんか。ラッキー!
私たちは渡りに舟とじいさんの後にくっついて行ったのですが、しばらく歩いてひょいっと路地を曲がったところで「これだ」とじいさんに示されたのは、なんとサイクルリキシャではありませんか。確かにじいさんは「リキシャ」と言っており、「オートリキシャ」とは言っていませんでしたのでウソでも詐欺でもないわけですが、今回ばかりはエンジン付きのやつで素早く駅まで行ってしまいたいわけです。するとじいさんは「なあに、駅までなら20分で行けるぞ」と胸を張るわけですよ。そこまで言われたら断る理由はないわけで、仕方なくMくんと二人狭い座席に乗り込んだのですが、なんせおおきなリュックもあるのでどうしても体が座席の幅より外に出てしまうのです。なのにじいさんは従来のサイクルリキシャの車幅感覚で、ごみごみした雑踏にぐいぐい入って行くものですから、すれ違う車や家の壁などに肘や膝が当たらないようにするのが大変でした。

駅までは25分かかりました。
まだ列車の出発時刻までは20分以上ありますので、余裕の到着と言ってもいいのかもしれませんが、途中でどんどんオートリキシャや若い車夫のサイクルリキシャに抜かされたりなんかしますと、実に不安でしかたありませんでした。
そんな私の心配をよそに、駅に着く直前になるとじいさんは自分の家族構成などを説明し、いかにその生活が苦しいかをとくとくと説き、最後に「何か日本のものをくれないか」と言うのです。私はこの旅の記録を取るためにハガキサイズのノートを6冊持って来ていたのですが、もう使わないであろう2冊をじいさんにくれてやりました。
しかしじいさんは本当はボールペンなどのより「工業製品」っぽいものが欲しかったようで、ノートにはちょっと不満そうな顔をしたのでありました。

ホームにはすでに乗車予定の列車が停車していました。
インド・列車のチケット今回はまたエアコン付の二段寝台車ということもあり、特に混乱もなく席に着けたのですが、どうも周りのインド人たちがちょっと・・・といった感じなのです。
たとえば私の隣に座ったのは会社員風の若い男だったのですが、トイレに立った隙に向かいの席のシークのおっさんに自分の席に置いておいた雑誌を取られて読まれてしまったというのに、なにも文句を言わず、そのくせ悲しそうにシークのおっさんが雑誌を読む姿をじっと見つめていたりするのです。なぜ一言「返して下さい」って言わないのでしょうか。おっさんはシーク教徒なので、俗に言う「カースト」によるものとは違うと思うのですが、そこにはなにか私たち外国人にはわからない力関係が存在するのでしょうか。
確かにそのシークのおっさんは体も大きく腕っぷしも強そうで態度もでかく、ベッドを作って上段に上がってからもべちゃべちゃと大きな音を立てて食事をし、ぐぇ~っとひときわ長いゲップをしたかと思うと、間髪入れずにぶわっと大きな屁をこいたりしておりまして、いかにも社会的強者のフルマイといった感じなのであります。
そんなおっさんの姿に、斜め下のベッドから見ていた外国人の私も少々恐れおののき、少なくとも私がいじめの対象にならないことを祈り、おっさんが寝支度をするときに外したターバン型の帽子がベッドから転がり落ちた時などは、素早い動作でそいつを拾い上げ、にっこり笑って手渡したりしたのでありました。
なにしろこの旅最後の列車移動ですから、長いものにはターバンのようにぐるぐる巻かれ、少しでも快適に過ごしたいと思うわけです。

さっ、明日の朝はいよいよデリーです。いじめに遭う前に早いとこ寝てしまいましょう。

目をつぶり眠りにつこうとした私の耳に、斜め上方辺りから今度は豪快ないびきが聞こえて来ました。

しかしまあ・・・体中からいろんな音を出すおっさんだなあ・・・

つづく

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インド:2001年7月15日(日)バラナシ・2001年インドの旅第88回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/15(日) バラナシ 曇り 時々 雨 気温28℃

窓のない部屋でぐっすり寝てしまい、目が覚めたのは8時過ぎであった。
今日も昨日の少年たちにガイドをしてもらう約束だったので少々あせる。また今日は河の見える部屋に移れる約束がしてあったので、外出までに荷物をまとめなければならない。
10時ぴったりにホテルの入口に行くと、少年たちはちゃんと来ていた。

まず有名な火葬場マニカルニカ・ガートに行く。
狭い路地をくねくね歩き、マニカルニカ・ガートの入口とおぼしき場所に出る。
まさに山のような薪が積まれており、太い丸太にくさびを打ち込んで割っていたり、船で新たな薪を運んで来たりと忙しそうであった。
少年の話では火葬は10:30から始まるとの事で、あと15分程で見られると言っていた。
マザーテレサのホスピスという建物の屋上へ行く。屋上からは火葬場が見下ろせる。
じいさんが近くに来て勝手に説明を始める。
無視していてもどんどんしゃべって行く。新しい死体が来たぞとか、老人は金糸のきれいな衣にくるまれ、若い人は白い布に巻かれているなどと説明する。
火葬場では薪を慎重に積み上げており、そのかたわらには赤地に金糸で刺繍をした衣にくるまれた死体が、担架のような竹の上に横たえてある。
ガンガーの流れは早く、観光客を乗せた船が船着き場に向かって来るが、流水を計算してかなりのスピードで岸に向かっている。何隻か泊まっている船にそのままぶつかり止まった。ロープを使い船着場に寄せ、観光客を降ろしている。
火葬を見たいとは思わないので、その場を後にする。じいさんがいろいろ言って来るが、何も取り合わずに去る。

ふたたび路地に入って行き、水入れ容器をRS.15で買う。クツを脱いで店に入ったので、外に置いたクツを踏まれる。
しばらく通りをぶらつき、昨日行ったレストラン、アンカーへ行く。
水、リムカ、チキンオニオンスープ、チキンチョーメンをたのむが、1時間以上出て来ない。その間も少年は二人でふざけたりちょろちょろして、ちっとも落ち着かない。
長い間待たされたチョーメンの味は格別だった。

食後、少年の言う「早い」ネットの店へ行く。
アルカホテルのすぐそばのゲストハウスだった。よく確認せずに始めると日本語対応ではなく、書けも読めもしないのですぐ出る。RS.20取られた。
もう一軒の店で、1時間かけてメール2通と返事1通こなす。

少年たちにホテルまで案内させ、ガイド料としてRs.50ずつ渡すが、もっとくれと言うのでRs.10ずつ追加。大きい方の少年はもっとくれとしつこい。難色を示していると、小さい方が大きい方を制し握手を求めて来た。りこうな少年である。

ホテルは約束通り一番いい部屋をくれ、すでに荷物も移動してあった。
さすがに良い部屋で、屋上部分の独立した建物のような場所なので、なんと三方に窓があり、バルコニーまで付いている。
水量の増したガンガーがすぐ真下を流れて行く。右手にはガートも見える。
エアコン付なので当然エアコンを入れていると、突然電源が飛び点かなくなった。
しばらく待ったがまったく復旧しないので、フロントに伝え直してもらった。
結局その後もまた止まり、夜は窓を開け、天井ファンを回して寝ることにする。

なんだか寝つけず、バルコニーに出て河を眺めたりする。
いったいサルはどこで寝ているのだろうか。
大きなタガメが2匹バルコニーにいる。

川岸につながれたボートが揺れているだけで、人が誰もいない。その光景が返って、ここも同じ「人間」が住む町なんだということを思い起こさせ、安心する。

川の流れを枕にして寝るとは「流石」である。

雨が降った。

今日もまたリュウとケンに案内を頼み、まずはバラナシの名物(この表現はちょっと不謹慎ですが)ともいえる火葬場に行ってみることにしました。

雨季でぐちゃぐちゃになった狭い路地を、少年二人は慣れた足取りですいすいと進んで行きます。
途中彼らより年長と思われる少年たちに呼び止められ、なにやらからまれたりしておりましたが、子どもの社会もいろいろあるのでしょう。私も子どもの頃、お祭りで他の地区から来た悪い少年に金をせびられたりしたものです。
私たちの手前か、からんで来た少年たちは意外とあっさり引き下がりましたが、もしかしたら次に出会ったときには、もっと手ひどくやられてしまうのかもしれません。

さらに路地をくねくねと行くと、急に視界が開けガンジス河のほとりに出ました。ここが有名な火葬場、マニカルニカ・ガートのようです。

しかし辺りはうず高く積まれた薪の山ばかりで、火葬場らしい感じがしません。
すると少年たちはそれを見透かしたように、「この建物の上からよく見える」と言い、近くの建物の階段を上がって行きます。当然だれか所有者がいるはずの建物に、勝手に入ってしまって良いものなのでしょうか?

なるほど、屋上からは火葬場の風景が一望できました。

遺体と思われるものを載せた竹組みの担架が置かれ、その横で男たちが薪をきれいに積み上げている様子などを眺めていると、いつの間にか私のすぐ横に老人が来ており、「ほら、あそこに新しい遺体が運ばれて来た」などと説明を始めます。
どうせ後でガイド料を請求されるのはわかっていましたので、老人を無視して少年にあれこれ聞いてみるのですが、そこは子どもの悲しさ、老人とは生きた時間があまりにも違い過ぎ、こちらの望む答えが返って来ません。特に船着場に激突するようにして到着したインド人観光客を見ながら、「あの人たちはインドのどの辺から来たのだろう?」という疑問を口にした時には、少年が見当もつかずに戸惑っているのを尻目に、老人は「南インドから来た人たちだ」と即座に断言するものですから、こちらも思わず「無視」していることを忘れ「なぜわかる?」と聞き返してしまいました。すると老人はこともなげにたった一言、「彼らの言葉だ」と言うものですからすっかり感心してしまいました。

火葬場では先ほどの遺体が薪の上に載せられ、これからいよいよ火が点けられるようでしたが、火葬自体を見たいとは思いませんでしたので、それは見ずに立ち去ることにしました。
案の定、立ち去り際に老人はガイド料を要求して来ましたが、頼んだ覚えはないので無視して行こうとすると、老人はなにやら呪いの言葉のようなものを私の背に浴びせて来ました。

う~ん、どうせエセ・サドゥーなのでしょうが、こういう場でそういうことをされるとやはりちょっとキモチ悪いものです。

でも、そんなことをされるとますます「びた1ルピー」もあげる気はしなくなるものです。
こちらも怒りのパワーで老人の呪詛など吹き飛ばしてしまうのです。なろー!

私はこのバラナシで特に何がしたいということはなく、本当に物見遊山のまったく不謹慎ないち観光客だったのですが、記念にガンジス河の水を持ち帰るための壺(私は水を持ち帰るわけではないのですが)が欲しくなり、途中の店で真鍮製の小さなものを買いました。その店での買い物ははなからそれだけだったのですが、店主は商売っ気全開で「さあ、上がれ上がれ」といって私たちを店の二階に上げ、高価な織物などを見せるのです。でも当然そんなものは買わずに店を出ようとすると、店の前をオレンジ色の衣を着た巡礼者の一団がどかどかと通り過ぎて行くところで、店の前の道に脱いで置いてあった私のクツがその一団に次々と踏まれて行き、あっという間に泥だらけになってしまいました。
これはあの老人の呪いなのでしょうか。

インド・ヴァラナシの宿の部屋ホテルに戻ると、約束通りガンジス河の見える一番高い部屋に移れる手筈が整っていました。

部屋は屋上に建つ独立家屋といった感じのもので、そのためガンジス河に向かって正面と左右に窓があり、実に明るく開放的な雰囲気でした。
もちろん部屋代も高く、一部屋(二人で使用して)750ルピーでした。
しかし昨日の窓のない部屋でも300ルピーしましたので、長逗留しないのであれば、だんぜんこちらの部屋の方がいいでしょう。

部屋にはテレビもありましたので久しぶりにニュースを見ていると、近々アグラで開催されるインド・パキスタン首脳会談の特番の宣伝がバンバン流れていて、それだけでその会談がどれほど重要なものかがわかるのでした。

この部屋には専用のバルコニーも付いていて、思う存分ガンジス河を眺めることができます。

インド・ヴァラナシのガンジス河さっそくバルコニーに出てガンジス河の流れを見つめていると、この旅で出会ったたくさんの人たちや出来事が次々と思い出されて来ました。
インドに来てから2か月とちょっとが経ち、だいぶ疲れも溜まって来ているということもありましたが、いよいよ明日はデリーに向かう列車に乗り、長いようで短かった旅も終わるということで、ちょっと感傷的になってしまったのでしょう。

そのためか、その夜はなかなか寝つけませんでした。

いや、もしかしたら寝つけなかったのは、あの老人の呪いのせいだったのかもしれません。

とにかくバランナシは、どこか神秘的な雰囲気があることだけは確かなのです。

つづく

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