2001年インドの旅・目次

*これはブログ形式で書いた記事の目次です。

第1回・2001年5月10日(木)成田空港
第2回・2001年5月10日(木)機内
第3回・2001年5月10日(木)着陸
第4回・2001年5月10日(木)デリー
第5回・2001年5月11日(金)デリー
第6回・2001年5月12日(土)デリー
第7回・2001年5月13日(日)デリー
第8回・2001年5月14日(月)デリー
第9回・2001年5月15日(火)デリー
第10回・2001年5月16日(水)デリー
第11回・2001年5月17日(木)デリー
第12回・2001年5月18日(金)デリー
第13回・2001年5月19日(土)デリー
第14回・2001年5月19日(土)デリーからアーマダバードへ
第15回・2001年5月20日(日)デリーからアーマダバードへ
第16回・2001年5月20日(日)アーマダバード
第17回・2001年5月21日(月)アーマダバード
第18回・2001年5月22日(火)アーマダバード
第19回・2001年5月22日(火)アーマダバード
第20回・2001年5月23日(水)アーマダバード
第21回・2001年5月23日(水)アーマダバードからムンバイへ
第22回・2001年5月24日(木)ムンバイ
第23回・2001年5月24日(木)ムンバイ
第24回・2001年5月25日(金)ムンバイ
第25回・2001年5月26日(土)ムンバイ
第26回・2001年5月27日(日)ムンバイ
第27回・2001年5月28日(月)ムンバイ
第28回・2001年5月29日(火)ムンバイ
第29回・2001年5月30日(水)ムンバイからゴアへ
第30回・2001年5月30日(水)パナジ
第31回・2001年5月31日(木)パナジ、マプサ
第32回・2001年5月31日(木)パナジ
第33回・2001年6月1日(金)アンジュナビーチ
第34回・2001年6月1日(金)アンジュナビーチ
第35回・2001年6月2日(土)アンジュナビーチ
第36回・2001年6月3日(日)アンジュナ→マプサ
第37回・2001年6月3日(日)パナジ→バンガロール
第38回・2001年6月4日(月)バンガロール
第39回・2001年6月4日(月)バンガロール
第40回・2001年6月5日(火)バンガロール
第41回・2001年6月6日(水)バンガロール
第42回・2001年6月7日(木)バンガロール
第43回・2001年6月8日(金)バンガロール
第44回・2001年6月9日(土)バンガロール
第45回・2001年6月10日(日)バンガロール
第46回・2001年6月11日(月)バンガロール
第47回・2001年6月12日(火)バンガロール
第48回・2001年6月13日(水)コーチン
第49回・2001年6月14日(木)コーチン
第50回・2001年6月14日(木)コーチン
第51回・2001年6月14日(木)コーチン
第52回・2001年6月15日(金)コーチン
第53回・2001年6月15日(金)コーチン
第54回・2001年6月15日(金)コーチン
第55回・2001年6月15日(金)コーチン
第56回・2001年6月16日(土)コーチン
第57回・2001年6月16日(土)コーチン
第58回・2001年6月16日(土)コーチン
第59回・2001年6月17日(日)コーチン
第60回・2001年6月18日(月)コーチンからトリヴァンドラムへ
第61回・2001年6月19日(火)トリヴァンドラムからコヴァラムビーチへ
第62回・2001年6月19日(火)コヴァラムビーチ
第63回・2001年6月20日(水)トリヴァンドラムからカニャークマリへ
第64回・2001年6月21日(木)カニャークマリ
第65回・2001年6月22日(金)カニャークマリ
第66回・2001年6月23日(土)チェンナイ
第67回・2001年6月24日(日)チェンナイ
第68回・2001年6月25日(月)チェンナイ
第69回・2001年6月26日(火)チェンナイ
第70回・2001年6月27日(水)チェンナイ
第71回・2001年6月28日(木)チェンナイ
第72回・2001年6月29日(金)チェンナイ
第73回・2001年6月30日(土)チェンナイ
第74回・2001年7月1日(日)チェンナイ
第75回・2001年7月2日(月)ハイダラバード
第76回・2001年7月3日(火)ハイダラバード
第77回・2001年7月4日(水)ハイダラバード
第78回・2001年7月5日(木)ハイダラバード
第79回・2001年7月6日(金)~7日(土)ハイダラバードから列車移動
第80回・2001年7月7日(土)カルカッタ
第81回・2001年7月8日(日)カルカッタ
第82回・2001年7月9日(月)カルカッタ
第83回・2001年7月10日(火)カルカッタ
第84回・2001年7月11日(水)カルカッタ
第85回・2001年7月12日(木)カルカッタ
第86回・2001年7月13日(金)カルカッタ
第87回・2001年7月14日(土)バラナシ
第88回・2001年7月15日(日)バラナシ
第89回・2001年7月16日(月)バラナシ
第90回・2001年7月17日(火)デリー
2001年インドの旅を終えて

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インドのマフラー

インド:2001年インドの旅を終えて

実に長いこと「2001年インドの旅」という題名で書かせて頂きました。

最新のインド情報ではなく、かといって昔懐かしいというほどの時を経ていない、なんとも中途半端な旅行記にお付き合い頂きありがとうございました。

この旅では結構マメにメモを取ったり、チケットやレシートを取って置いたりしておりましたので、いつかそれを整理しようと思いつつ今日に至り、ようやくその気になったというだけでダラダラ書いて来たわけです。
日付の浅いうちは当時のメモ書きに新たに注釈を付けたり加筆するという形を取っていたのですが、最後の方は当時のメモ書きの記述が長く、ブログの本文は不要なくらいになってしまいました。
でもまあ私としてはこれで一応整理ができたな(雑ですけど)という気がしております。

さて、この「2001年インドの旅」という題名は、あのスタンリー・キューブリック監督で映画化された「2001年宇宙の旅」をまねして付けたものです。まあどちらも「そのまんま」のネーミングですし、また両者の内容にはまったく関連性がありませんので、別にそんなのどーだっていいやとお思いでしょうが、実は今回またもや3カ月ほどインドに行って来ることになり、おそらくそのうちこのブログでその旅のことを書くことになると思うのであります。
で、そうなるとその題名は「2010年インドの旅」になろうかと思うのですが、そうするとまた「2001年宇宙の旅」の続編「2010年宇宙の旅」(原作小説の邦題で、映画の邦題は単に「2010年」です)とかぶるじゃないですか。ええ、内容はやっぱりぜっんぜん関係ないんですけどね、はい。

そんなわけで、来週末からインドに行きます。
大まかなコースは「2001年インドの旅」をなぞるものになります。(訪問順や移動方法などの違いは多々ありますが)
あえて同じ町を訪れることで、この9年間で変わったもの、逆に変わらなかったものが見えてくるのではないかと思うわけです。そしてそれはインドやインド人の変化というものだけではなく、自分自身においてもどう変わって来たか(変わってしまったか)を確認することになるのではないかと思うのであります。

そんなインドレポートは、可能であれば現地から(このブログで)発信したいと思っております。
写真を交えての詳細な報告は帰国後(5月末)になると思いますが、それまでも、たまにはこのブログを覗きに来て頂きたいとお願いする次第であります。

それでは元気に、行って参ります!

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ブロックプリントの版木

インド:2001年7月17日(火)デリー・2001年インドの旅第90回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/17(火) デリー 曇り 気温朝28℃→32℃

6時少し前に、周りの人が動き出した気配で目が覚める。
外はもう都市が近いらしく家がたくさん見える。雨が降っている。

チャイを飲み身支度を整えると、すぐにニューデリー駅に到着。6:45頃。

駅は早朝だからか意外に客引きがおらず、リキシャの客引き程度であった。
メインバザールもまだ人もまばらで歩きやすい。
ホテルの客引きが寄って来て、スターパレスの名刺を見せる。同じ名刺を見せ、予約がすでにしてある旨伝えると、おとなしく引き下がった。
しかしその先にいたじいさんはしつこく、予約をしてあると言うのに、先に立ちスターパレスに連れて行く。しかしフロントの人が我々の顔を覚えており、じいさんは怒鳴られ追い返される。じいさん、入口付近でまだ未練がましくこっちを見ていた。

部屋は約束通り403号室を空けておいてくれた。他は満室とのことであり、予約をしておいてよかったと思う。
お湯はNo.9にTelすれば元のスイッチを入れてくれるとの事。どうりで前は出なかった訳だ。
快適なシャワーを浴び、ヒゲを剃る。

10時過ぎ、出掛ける。

出がけに近くの店とチャイ屋に写真を渡す。
チャイ屋ではチャイを飲みしばらく休む。

そのままステート・エンポリアムまで行く。
途中でトウモロコシを食べる。Rs.5。

3:50帰路に着く。
家にTel.、途中切れたりして3回かけ、Rs.83。
ネットカフェはいっぱいで待つこと40分。
ようやくメールチェックができた。

ホテルで水シャワーを浴び、ルームサービスでガーリックチキン、ライス、チキンスープと水を頼む。

朝目が覚めると、すでにシークのおっさんはいませんでした。

ベッドを片づけるとすぐに上段の人も降りて来て、シートに並んで座りました。
とは言え、この人とは会話はまったくなく、ただ二人で黙って前の席でまだ寝ているMくんを意味もなく見つめているだけでした。
そんな二人の視線を感じたのか、間もなくMくんも薄眼を開け、じっと自分を見つめる四つの目にちょっと照れたようにしておりました。

ニューデリー駅には6時45分頃到着しました。
まだ完全に動き出していない早朝のニューデリー駅に降り立つと、なんとも懐かしい気持ちが込み上げて来ました。2か月前にはこの駅の外国人専用切符売り場にもなかなか行きつけなかったというのに、今はまるで故郷に帰って来たような気分です。

それはホテルも同じ事で、すでにコルカタ(カルカッタ)から以前と同じ部屋に泊まりたいとリクエストを入れていたこともあり、2か月ぶりに入った部屋は本当に自分の家に帰って来たように思えました。

インド・メインバザールの宿の部屋からの眺めこれで今回の旅の振り出しの場所(正確には自宅が「振り出し」ではありますが)に戻って来たことになり、約70日間、移動距離約8,500kmの旅は一応の終りとなります。
この旅では特に目に見える成果というものはなにもないのですが、この歳にしてこんなにもたくさんの「初めての経験」をしたり、「新しい知識」を得られるとは思ってもみませんでした。なにしろ旅を終えて戻ったこのホテルで、シャワーを使う際にはフロントに電話するとボイラーのスイッチを入れてくれるという「新事実」を知ったほどなのです。
まっ、できればインド到着初日にその言葉が聞き取れていたなら、この旅で泊まったほとんどのホテルで快適なシャワーを浴びることができたわけですけどね。

さらにこの旅では、情け容赦なく襲いかかるインド人のスルドイ攻撃や、思いもよらない親切な行為に、その都度本気で怒ったり喜んだりできた(させられた)ことが、今となって思えばなかなか貴重な体験だったのではないかと思うわけです。

とにかくです、おそらくこの旅で私は少しは成長できたのではないかと思うわけでありまして、この場をお借りしてお礼を申し述べさせて頂くのであります。

実に勉強になりました!インドの国よ!
大変お世話になりました!インドの人たち!

本当にありがとうございました!

おしまい

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シンプルデザインの真鍮製シンギングボウル

インド:2001年7月16日(月)バラナシ・2001年インドの旅第89回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/16(月) バラナシ うす曇り 気温29℃

5時前にはもう目を覚まし、寝たまま窓から外をうかがったり、またウトウトしたりしていた。
ガンジス河の朝日を見たいと思ったのだが、雲が多くて見られなかった。

午前中は荷物をまとめ、バルコニーから河をながめたり、家屋の上で遊びまわるサルを見て過ごす。サルはとてもいたずらで、特に子ザルなどは屋上の洗濯物を二匹がかりで引きずり下ろしたりしている。

11:30 チェックアウト 1,050ルピー

うろ覚えの道でなんとか郵便局にたどり着く。
また同じレストラン「アンカー」にて昼食

チキンオニオンスープ Rs.30
チキンチョーメン Rs.35
ミネラルウォーター Rs.12

注文 11:50
出来上がり 12:45

スープが出て来ず催促する。注文もれらしくこれから作る模様。早くするように言うと10分程で持って来た。やればできるのだ。

ゴードウリヤー交差点まで行き、リキシャの客引きに連れられて行くと、サイクルリキシャであった。
20分で行けるとの答えに乗ってみると、乗り心地悪し。リキシャワーラーを見ているだけで疲れる。
結局25分かかり到着。
日本製品をねだられ、ノート(小)2冊をあげる。

列車はすでに入線しており、自分の車両を見つけて乗り込む。

定刻に出発。
田園風景の中を走って行く。
しばらくして「スナック」の注文を受けに来た。コーヒーだけを注文したつもりがSetになっていたらしく、パン2枚にバターとケチャップ。丸いコロッケ状のものは、何の香辛料か匂いが少し気になり、あまりおいしくない。パンにバターをつけ、コロッケをはさんで食べた。

4人用の下段二つを確保できた今回だが、周りはなんだか胡散臭そうな人が多い。
向かいの上段は押しの強そうなシーク教徒の太ったおっさんだし、通路を挟んだ席のおやじもラジオをかけたり勝手にファンを回したりひどい。
とにかく9:30無事ベッドを作り、寝ることができそうである。

ガンジス河を一望できる部屋で迎えた朝でしたが、残念ながら朝日を拝むことはできませんでした。
インド・ヴァラナシのガンジス河水量の多さからも、ここはどうも雨季に来るところではなさそうです。

今日は早くもバラナシを発ち、いよいよこの旅のゴールとなるデリーに向かいます。

荷づくりも早々に済ませ、チェックアウトの時間まで外の景色を眺めて過ごしました。
ここは本当にサルの多い街で、ごちゃごちゃ建ち並んだ家の屋根づたいに何匹ものサルが移動して行くのが見えます。
すぐ近くの家の屋上では、二匹の子ザルが洗濯物のシーツに飛びつき、力を合わせて(?)そいつを引きずり下ろしていました。子ザルにしてもそんなことしたって何の利益にもならないわけで、これはただ単に悪戯を楽しんでいるだけと思われ、やはりサルは知能が極めて高いのだなあと妙に納得したのであります。

ホテルをチェックアウトし、昼食を食べに行きました。
結局バラナシではここ以外で食事をしておりません。しかもここはいつもがらんとして客などほとんどいないくせに、注文してから料理が出て来るまでに恐ろしく時間がかかるのです。簡単な料理なのに1時間くらい待たされるのです。
そんなレストランに今日もまた性懲りもなく入ってしまいました。まったく自分のことながら実にワンパターンであきれてしまいます。

今日は列車の時間が決まっているのであまり悠長に料理が出て来るのを待ってはいられないのですが、それでもまだ2時間はたっぷりありますので大丈夫でしょう。
と、たかをくくって料理を待つこと約1時間、ホント、わざと1時間経ってから出すように調整しているんじゃないかと思うほどの正確さで料理が出て来ました。
しかしです、頼んだはずのスープが出て来ません。聞いてみるとどうも注文が抜けていたようです。列車の出発時間が14時10分で、今はもう12時45分を回っております。駅までの移動を考えると、スープが出て来るのにもう1時間待つことなどできないわけです。
そこでちょっときつく、「いいか、早く作って持って来いよ!」と申し付けましたところ、なんとわずか10分でスープを持って来たではありませんか。
なんだよ・・・やればできるんだったら、普段からそのくらいのスピードでやれよ。客の回転率って言葉を知らないのか?まあここは回転しなくてもいつもがらがらだけどね。

たとえ10分とは言えいつもより余計に時間がかかってしまい、ゴードウリヤー交差点までやって来た時にはすでに時刻は13時20分になっており、列車の出発まで40分しかなくなってしまいました。
これは早いとこオートリキシャをつかまえて、少しくらい高いこと言われても乗ってしまおうと思っていると、ひとりのじいさんが近づいて来て「ワシのリキシャに乗らないか」と言うではありませんか。ラッキー!
私たちは渡りに舟とじいさんの後にくっついて行ったのですが、しばらく歩いてひょいっと路地を曲がったところで「これだ」とじいさんに示されたのは、なんとサイクルリキシャではありませんか。確かにじいさんは「リキシャ」と言っており、「オートリキシャ」とは言っていませんでしたのでウソでも詐欺でもないわけですが、今回ばかりはエンジン付きのやつで素早く駅まで行ってしまいたいわけです。するとじいさんは「なあに、駅までなら20分で行けるぞ」と胸を張るわけですよ。そこまで言われたら断る理由はないわけで、仕方なくMくんと二人狭い座席に乗り込んだのですが、なんせおおきなリュックもあるのでどうしても体が座席の幅より外に出てしまうのです。なのにじいさんは従来のサイクルリキシャの車幅感覚で、ごみごみした雑踏にぐいぐい入って行くものですから、すれ違う車や家の壁などに肘や膝が当たらないようにするのが大変でした。

駅までは25分かかりました。
まだ列車の出発時刻までは20分以上ありますので、余裕の到着と言ってもいいのかもしれませんが、途中でどんどんオートリキシャや若い車夫のサイクルリキシャに抜かされたりなんかしますと、実に不安でしかたありませんでした。
そんな私の心配をよそに、駅に着く直前になるとじいさんは自分の家族構成などを説明し、いかにその生活が苦しいかをとくとくと説き、最後に「何か日本のものをくれないか」と言うのです。私はこの旅の記録を取るためにハガキサイズのノートを6冊持って来ていたのですが、もう使わないであろう2冊をじいさんにくれてやりました。
しかしじいさんは本当はボールペンなどのより「工業製品」っぽいものが欲しかったようで、ノートにはちょっと不満そうな顔をしたのでありました。

ホームにはすでに乗車予定の列車が停車していました。
インド・列車のチケット今回はまたエアコン付の二段寝台車ということもあり、特に混乱もなく席に着けたのですが、どうも周りのインド人たちがちょっと・・・といった感じなのです。
たとえば私の隣に座ったのは会社員風の若い男だったのですが、トイレに立った隙に向かいの席のシークのおっさんに自分の席に置いておいた雑誌を取られて読まれてしまったというのに、なにも文句を言わず、そのくせ悲しそうにシークのおっさんが雑誌を読む姿をじっと見つめていたりするのです。なぜ一言「返して下さい」って言わないのでしょうか。おっさんはシーク教徒なので、俗に言う「カースト」によるものとは違うと思うのですが、そこにはなにか私たち外国人にはわからない力関係が存在するのでしょうか。
確かにそのシークのおっさんは体も大きく腕っぷしも強そうで態度もでかく、ベッドを作って上段に上がってからもべちゃべちゃと大きな音を立てて食事をし、ぐぇ~っとひときわ長いゲップをしたかと思うと、間髪入れずにぶわっと大きな屁をこいたりしておりまして、いかにも社会的強者のフルマイといった感じなのであります。
そんなおっさんの姿に、斜め下のベッドから見ていた外国人の私も少々恐れおののき、少なくとも私がいじめの対象にならないことを祈り、おっさんが寝支度をするときに外したターバン型の帽子がベッドから転がり落ちた時などは、素早い動作でそいつを拾い上げ、にっこり笑って手渡したりしたのでありました。
なにしろこの旅最後の列車移動ですから、長いものにはターバンのようにぐるぐる巻かれ、少しでも快適に過ごしたいと思うわけです。

さっ、明日の朝はいよいよデリーです。いじめに遭う前に早いとこ寝てしまいましょう。

目をつぶり眠りにつこうとした私の耳に、斜め上方辺りから今度は豪快ないびきが聞こえて来ました。

しかしまあ・・・体中からいろんな音を出すおっさんだなあ・・・

つづく

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インドのショール

インド:2001年7月15日(日)バラナシ・2001年インドの旅第88回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/15(日) バラナシ 曇り 時々 雨 気温28℃

窓のない部屋でぐっすり寝てしまい、目が覚めたのは8時過ぎであった。
今日も昨日の少年たちにガイドをしてもらう約束だったので少々あせる。また今日は河の見える部屋に移れる約束がしてあったので、外出までに荷物をまとめなければならない。
10時ぴったりにホテルの入口に行くと、少年たちはちゃんと来ていた。

まず有名な火葬場マニカルニカ・ガートに行く。
狭い路地をくねくね歩き、マニカルニカ・ガートの入口とおぼしき場所に出る。
まさに山のような薪が積まれており、太い丸太にくさびを打ち込んで割っていたり、船で新たな薪を運んで来たりと忙しそうであった。
少年の話では火葬は10:30から始まるとの事で、あと15分程で見られると言っていた。
マザーテレサのホスピスという建物の屋上へ行く。屋上からは火葬場が見下ろせる。
じいさんが近くに来て勝手に説明を始める。
無視していてもどんどんしゃべって行く。新しい死体が来たぞとか、老人は金糸のきれいな衣にくるまれ、若い人は白い布に巻かれているなどと説明する。
火葬場では薪を慎重に積み上げており、そのかたわらには赤地に金糸で刺繍をした衣にくるまれた死体が、担架のような竹の上に横たえてある。
ガンガーの流れは早く、観光客を乗せた船が船着き場に向かって来るが、流水を計算してかなりのスピードで岸に向かっている。何隻か泊まっている船にそのままぶつかり止まった。ロープを使い船着場に寄せ、観光客を降ろしている。
火葬を見たいとは思わないので、その場を後にする。じいさんがいろいろ言って来るが、何も取り合わずに去る。

ふたたび路地に入って行き、水入れ容器をRS.15で買う。クツを脱いで店に入ったので、外に置いたクツを踏まれる。
しばらく通りをぶらつき、昨日行ったレストラン、アンカーへ行く。
水、リムカ、チキンオニオンスープ、チキンチョーメンをたのむが、1時間以上出て来ない。その間も少年は二人でふざけたりちょろちょろして、ちっとも落ち着かない。
長い間待たされたチョーメンの味は格別だった。

食後、少年の言う「早い」ネットの店へ行く。
アルカホテルのすぐそばのゲストハウスだった。よく確認せずに始めると日本語対応ではなく、書けも読めもしないのですぐ出る。RS.20取られた。
もう一軒の店で、1時間かけてメール2通と返事1通こなす。

少年たちにホテルまで案内させ、ガイド料としてRs.50ずつ渡すが、もっとくれと言うのでRs.10ずつ追加。大きい方の少年はもっとくれとしつこい。難色を示していると、小さい方が大きい方を制し握手を求めて来た。りこうな少年である。

ホテルは約束通り一番いい部屋をくれ、すでに荷物も移動してあった。
さすがに良い部屋で、屋上部分の独立した建物のような場所なので、なんと三方に窓があり、バルコニーまで付いている。
水量の増したガンガーがすぐ真下を流れて行く。右手にはガートも見える。
エアコン付なので当然エアコンを入れていると、突然電源が飛び点かなくなった。
しばらく待ったがまったく復旧しないので、フロントに伝え直してもらった。
結局その後もまた止まり、夜は窓を開け、天井ファンを回して寝ることにする。

なんだか寝つけず、バルコニーに出て河を眺めたりする。
いったいサルはどこで寝ているのだろうか。
大きなタガメが2匹バルコニーにいる。

川岸につながれたボートが揺れているだけで、人が誰もいない。その光景が返って、ここも同じ「人間」が住む町なんだということを思い起こさせ、安心する。

川の流れを枕にして寝るとは「流石」である。

雨が降った。

今日もまたリュウとケンに案内を頼み、まずはバラナシの名物(この表現はちょっと不謹慎ですが)ともいえる火葬場に行ってみることにしました。

雨季でぐちゃぐちゃになった狭い路地を、少年二人は慣れた足取りですいすいと進んで行きます。
途中彼らより年長と思われる少年たちに呼び止められ、なにやらからまれたりしておりましたが、子どもの社会もいろいろあるのでしょう。私も子どもの頃、お祭りで他の地区から来た悪い少年に金をせびられたりしたものです。
私たちの手前か、からんで来た少年たちは意外とあっさり引き下がりましたが、もしかしたら次に出会ったときには、もっと手ひどくやられてしまうのかもしれません。

さらに路地をくねくねと行くと、急に視界が開けガンジス河のほとりに出ました。ここが有名な火葬場、マニカルニカ・ガートのようです。

しかし辺りはうず高く積まれた薪の山ばかりで、火葬場らしい感じがしません。
すると少年たちはそれを見透かしたように、「この建物の上からよく見える」と言い、近くの建物の階段を上がって行きます。当然だれか所有者がいるはずの建物に、勝手に入ってしまって良いものなのでしょうか?

なるほど、屋上からは火葬場の風景が一望できました。

遺体と思われるものを載せた竹組みの担架が置かれ、その横で男たちが薪をきれいに積み上げている様子などを眺めていると、いつの間にか私のすぐ横に老人が来ており、「ほら、あそこに新しい遺体が運ばれて来た」などと説明を始めます。
どうせ後でガイド料を請求されるのはわかっていましたので、老人を無視して少年にあれこれ聞いてみるのですが、そこは子どもの悲しさ、老人とは生きた時間があまりにも違い過ぎ、こちらの望む答えが返って来ません。特に船着場に激突するようにして到着したインド人観光客を見ながら、「あの人たちはインドのどの辺から来たのだろう?」という疑問を口にした時には、少年が見当もつかずに戸惑っているのを尻目に、老人は「南インドから来た人たちだ」と即座に断言するものですから、こちらも思わず「無視」していることを忘れ「なぜわかる?」と聞き返してしまいました。すると老人はこともなげにたった一言、「彼らの言葉だ」と言うものですからすっかり感心してしまいました。

火葬場では先ほどの遺体が薪の上に載せられ、これからいよいよ火が点けられるようでしたが、火葬自体を見たいとは思いませんでしたので、それは見ずに立ち去ることにしました。
案の定、立ち去り際に老人はガイド料を要求して来ましたが、頼んだ覚えはないので無視して行こうとすると、老人はなにやら呪いの言葉のようなものを私の背に浴びせて来ました。

う~ん、どうせエセ・サドゥーなのでしょうが、こういう場でそういうことをされるとやはりちょっとキモチ悪いものです。

でも、そんなことをされるとますます「びた1ルピー」もあげる気はしなくなるものです。
こちらも怒りのパワーで老人の呪詛など吹き飛ばしてしまうのです。なろー!

私はこのバラナシで特に何がしたいということはなく、本当に物見遊山のまったく不謹慎ないち観光客だったのですが、記念にガンジス河の水を持ち帰るための壺(私は水を持ち帰るわけではないのですが)が欲しくなり、途中の店で真鍮製の小さなものを買いました。その店での買い物ははなからそれだけだったのですが、店主は商売っ気全開で「さあ、上がれ上がれ」といって私たちを店の二階に上げ、高価な織物などを見せるのです。でも当然そんなものは買わずに店を出ようとすると、店の前をオレンジ色の衣を着た巡礼者の一団がどかどかと通り過ぎて行くところで、店の前の道に脱いで置いてあった私のクツがその一団に次々と踏まれて行き、あっという間に泥だらけになってしまいました。
これはあの老人の呪いなのでしょうか。

インド・ヴァラナシの宿の部屋ホテルに戻ると、約束通りガンジス河の見える一番高い部屋に移れる手筈が整っていました。

部屋は屋上に建つ独立家屋といった感じのもので、そのためガンジス河に向かって正面と左右に窓があり、実に明るく開放的な雰囲気でした。
もちろん部屋代も高く、一部屋(二人で使用して)750ルピーでした。
しかし昨日の窓のない部屋でも300ルピーしましたので、長逗留しないのであれば、だんぜんこちらの部屋の方がいいでしょう。

部屋にはテレビもありましたので久しぶりにニュースを見ていると、近々アグラで開催されるインド・パキスタン首脳会談の特番の宣伝がバンバン流れていて、それだけでその会談がどれほど重要なものかがわかるのでした。

この部屋には専用のバルコニーも付いていて、思う存分ガンジス河を眺めることができます。

インド・ヴァラナシのガンジス河さっそくバルコニーに出てガンジス河の流れを見つめていると、この旅で出会ったたくさんの人たちや出来事が次々と思い出されて来ました。
インドに来てから2か月とちょっとが経ち、だいぶ疲れも溜まって来ているということもありましたが、いよいよ明日はデリーに向かう列車に乗り、長いようで短かった旅も終わるということで、ちょっと感傷的になってしまったのでしょう。

そのためか、その夜はなかなか寝つけませんでした。

いや、もしかしたら寝つけなかったのは、あの老人の呪いのせいだったのかもしれません。

とにかくバランナシは、どこか神秘的な雰囲気があることだけは確かなのです。

つづく

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インド:2001年7月14日(土)バラナシ・2001年インドの旅第87回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/14(土) バラナシ 曇 時々 晴 時々 雨 気温33℃

朝5時過ぎに目が覚める。
トイレに行きたいが、ヘタに起き上がると周りの迷惑と思い、もう一度寝る。

6時半過ぎ、周りもだいぶ起き始めた様だ。

朝起きてからも、同級生のインド人たちと話をして過ごす。

9:40バラナシ到着。
思ったより早いので驚く。

リキシャの男がRs.10でダシャシュワメード・ガートまで行くと言うので、ついて行き乗り込む。
すると男はエンジンをかけずに、「今は雨季でガートの水があふれて近くには行けない。他にいい所がある」と言い出す。
とにかく行ける所まで行くように言うが、男が聞かないので降りて歩き出すと、すかさず違う男がRs.30で行くと言う。
結局この男も同じ事を言い出し、周りのリキシャマンも寄ってたかって取り囲むので、さすがに頭に来て日本語で怒る。
駅に向かって歩き出すが、後を追って来た男とRs.50で目的地に行くことを約束し、結局元のリキシャに乗ることとなる。
走り出してからもムカついており、口もきかずに外を見る。
ガート近くの交差点で下車。

ガートに向かって歩き出すと、今度はやたらと話しかけられる。覚悟はしていたが、非常にわずらわしい。
ガートまで数人を引き連れて歩くことになった。

ガートはさすがに水かさが増え、階段もほとんど見えない。本来ならホテルにはガートづたいに行こうとしていたのだが、これではムリで、路地を行くしかない。
仕方なく少年二人に案内してもらうことにした。Rs.10ずつでアルカホテルに案内してもらう。

残念ながらアルカホテルのガンガーの見える部屋はいっぱいで入れないとの事。それでも明日は移れるとの事なので、今日は窓もエアコンもない安い部屋に泊ることにした。
少年たちにはそのまま待つように言い、部屋に荷物を置き、少年の案内でガートとレストラン、ネットカフェへ行く。

レストランはお好み焼き(?)やラーメン(?)も置いてある。
チキンフライドライスとチキンオニオンスープを食べる。
すごく出て来るまでに時間のかかるレストランだった。味はOK。

ネットカフェはレストランの階下にある。
Hot mail がなかなかつながらず、ここでも怒ってしまう。なだめられて別のPCでやるが、やはりすごく遅い。
なんとか1時間かけてメール2通を読み、返事を1通書いた。

帰りがけトマト500g、Rs.10で買う。

このホテルはガンガーのすぐ近くに建っており、中庭のテラスからの眺めはなかなかのもの。欧米人の若者が何人か集まり話をしている。
サルやリスも近くまで来ているが、サルは危険そうで要注意。レストランからもサルがたくさん屋上にいるのを見た。

部屋はエアコンが無く、唯一の窓もインド式のクーラーでふさがれており、あまりいい環境とは言えないが、それでもインド式クーラーの威力か、なかなか涼しくよく寝られそうな部屋である。(音がうるさいのが玉にキズではあるが)

シャワーを使うがやはりお湯が出ない。それでも体がベトベトだったので、シャワーは気持ちいい。

ガンガーは茶色の濁流となり、Hotelの目の前を流れている。よく岸が削られて建物が倒壊しないものだと感心する。

夕方ちょっといい雲が出ていたので写真を撮る。
子ザルが屋上にいる。トンボがたくさん飛んでいる。

ガンジス河の沐浴風景でおなじみのバラナシは、古くからヒンドゥー教の聖地として栄えて来た「聖なる街」なのですが、外国人のみならずインド各地からやって来た観光客や巡礼者たちでいつも賑わっていて、そしてそんな人々からなんとかして金を取ろうとする輩がハエのようにたかって来るという「俗なる街」でもあります。

そもそも目的のガンジス河に行くまでにオートリキシャのドライバーたちに手玉に取られ、初め10ルピーで誘い込まれたオートリキシャでは「雨季で水浸しなのでガートには近づけない」と言われ、別のオートリキシャに「30ルピーなら行く」と言われて乗り込むと、そいつにも同じような口実で粘られ飛び降り、最終的には元のオートリキシャに「50ルピー」払って行ってもらうことになったのです。
普通こういう交渉はお金を取るか時間を取るかなので、時間をかけて交渉すれば料金を安くでき、時間が惜しいなら初めから相手言い値で乗ってしまえばいいのです。
それが今回は時間がかかった上にお金までしっかり取られるなんて・・・バラナシ、恐ろしや・・・

それでもなんとかガンジス河近辺の中心地的存在であるゴードウリヤーの交差点まで来ました。
で、ここでもまたオートリキシャを降りるやいなや数人の男たちにわっと取り囲まれ、「オレがガイドする」とか「ガートはこっちだ」とか「これ買ってくれ」とか「サイン下さい」とか(うそ)実にうるさいのです。
結局その交差点からガンジス河畔のガートまで、まるでハーメルンの笛吹き男のようにたくさんの男たちを連れ歩くハメになってしまいました。

ええい!いっそのこと笛で操ってお前たちをガンジス河に流してやりたいよ!

インド・ヴァラナシのガンジス河ガンジス河は雨季でだいぶ水量が増えているようで、写真などで見るガートのイメージとだいぶ違っていて、うっかり水に入ろうものならあっという間に流されてしまいそうでした。
まあもともと私はガンジス河で沐浴したりバタフライしたりする気はありませんでしたので、手だけちょっと水に濡らして満足しました。

さて、次は宿探しとなるわけですが、私たちにくっついて来た男たちはまだ後ろでじっと待っています。
そこで私はその中から小学生くらいの男の子二人を選びました。バラナシのごちゃごちゃした道にはガイドがいた方がいいでしょうし、また相手が子どもなら万が一ケンカになっても勝てそうという理由で子どもにしました。

少年たちはひとりは「リュウ」と名乗り、もう一人は「ケン」と名乗りました。あと「ショウ」がいれば「ショウリュウケン!」になるのに残念です。

インド・ヴァラナシの宿の部屋少年たちの案内で目当てのホテル「アルカ」にたどり着きましたが、希望のガンジス河の見える部屋は取れませんでした。
それでも明日にはおそらくその部屋に入れるだろうということで、今日は一番安い部屋に泊ることにしました。

部屋は中庭に面した一階なのですが、唯一ある窓にはインド式の水冷クーラーがはめ込まれ光は全く入らないため薄暗く、ドアを開けっ放しにするのが一番快適なようです。

そんな中庭では欧米人の若者がお茶を飲みながらのんびり談笑などしていて、なかなかいい雰囲気です。
また中庭はそのままガンジス河を見下ろせるベランダにもなっていて、部屋からは河が見えないもののそこに行けば思う存分ガンジスの流れを眺めることができるので、とりあえず今日はこれでいいのだ。

つづく

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インド:2001年7月13日(金)カルカッタ・2001年インドの旅第86回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/13(金) カルカッタ うす曇り のち 晴 気温30℃

6時前に目が覚めてしまう。
洗濯物の乾きがいまいち悪く、一晩中クーラーをかけていたので寒い。

朝食を食べた後、Check Out の時間まで部屋でゴロゴロする。
11:30頃 Check Out。荷物を預けて外に出ると、青空も見えるほどの良い天気だった。

ハガキを出して、タクシーでカルカッタ大学まで行く。(Rs.80)
乗車の際ドライバーはRs.100を要求。あまりの高さに、距離からRs.30と言うと、話にならないといった素振り。リキシャのおやじが間に入りRs.80となった。

カルカッタ大学の周辺は古本屋街になっており、道の両側には小さな古本屋台が並んでいる。
しばらく古本屋を眺めた後、マハトマ・ガンディー駅(地下鉄)まで行き、エスプラネードまで3駅乗る。

ヴィックスドロップ5ケRs.6を5袋買う。
KHWAJAにて昼食。プロウンチョーメンとフレンチオニオンスープ、水、ミルクティー
ネットカフェで2時間ほどつぶして、辺りをうろつく。途中でトウモロコシRs.5食べる。
Hotel の前のチャイ屋でチャイRs.3。
西の空がきれいに輝いていたので、チョーロンギー通りまで出てみる。

6時に Hotel で荷物をピックアップして、サダルストリートよりタクシー。

ドライバーの言い値Rs70を60にして出発。
すさまじい渋滞の中をカーチェイスよろしくぶっ飛ばすドライバー。一見おとなしそうな痩せたおじさんが、パッシングとクラクションを繰り返しながらぐいぐい突っ込んで行く。
あの渋滞の中を20分で駅まで走ったのはキセキと言うほかないだろう。

さすがハウラー駅、すごい人。
プラットホーム8番に荷物を置き、家にTel.

出発時刻が19:20から20:00へ変更となっている。(事前に聞いていた通り)

7:30過ぎ、ようやく入線した列車からいち早く自分の車両を探し出し突入。
席に遠い方の入口から入ってしまったので、反対側から来る人をかき分けながらの本当の突入になってしまった。
なにしろ今回は3段ベッドなので、一つの席に3人、向かい側も合わせると6人が座る事になる。自分の荷物は一つだが、他の人が荷物をたくさん持っていたら、早く行かなければ置き場がなくなる可能性がある。
幸い席にはまだ誰も来ておらず、無事荷物を固定できた。
案の定、後から来たインド人はどんどん荷物を運び入れ始めた。小型のスーツケースを3個イスの下に突っ込み、箱型のスポーツバッグを3個足下に置いた。足を下ろせない向かい側の人は、クツを脱ぎアグラをかいた。なんだかくつ下が匂うような気がする。

定刻に出発すると、周りのインド人たちと話し始めた。時計を見ていくらするのか聞いて来る。正直に言うと大きな声で驚き、機能を説明すると更に大きな声で仲間に説明する。恥ずかしいし、そんな事で注目されるのは困る。
年齢の話になると、周りのインド人もみな同い年だった。もっと上かと思っていたので、何度も聞き返してしまった。
お茶をごちそうになる。

3段ベッドはやはり高さ方向が狭いが、それでも疲れからしばらくすると寝ついてしまった。
夜中、どこかの駅に着いたようで、辺りがやかましい。走り出してからも大きな声で話している。インド人は人が寝ていても平気で大声を出す。

今日はコルカタを出発する日です。

ハイダラバードでは、連日の晴とは打って変わって雨模様の出発となりましたが、コルカタは逆に青空まで出ています。

インド・コルカタのニューマーケットそんな青空に釣られ、タクシーでカルカッタ大学(当時のメモの表記のまま)まで行くことにしました。
私は学究の徒ではないので、特に大学に用があるわけではないのですが、大学界隈に広がる古本屋街を見たいと思ったのです。
実はそれも先日雇ったガイドのボース氏からの情報なのですが、彼曰く「日本人はカーリー寺院のようないわゆる『名所』に行きたがるが、欧米人は人々の生活を見たがる」とのことで、日本人なのに名所も見ずに農村を見たいという私をフシギがってそういう話をしたのです。でも私だって基本的な名所はやはり見ておいた方がいいと思いますし、日本人だってもっと時間があれば人々の暮らしだって見てみたいと思うはずなので、それは別に民族の違いによるものだけではなく、ましてや感性の優劣ではないと思うわけなのであります。
で、話を戻しまして、ボース氏はそんな欧米人の要望を満たすためにいつも案内するのが「ハウラー橋の花市場」と「カルカッタ大学の古本屋街」だということなのです。
じゃあいっちょその欧米人好みの「人々の暮らし」とやらを見てやろうじゃないかということで、先日は雨の中を花市場まで行き、今日は古本屋街に行こうとしているのです。まっ、別にオーベー人に対抗心を燃やしているわけでもないのですけどね、ふん。

目指す古本屋街はカルカッタ大学の周囲にありました。
インド・コルカタの街周囲というのは本当に周囲で、カルカッタ大学の塀に沿って小さな屋台形式の古本屋がぎっしり並んでいるのです。
そんな歩道にまであふれる古本の山と、それに集まる学生たち(この時はあまり人数がいませんでした。夏休みだったのでしょうか)を眺めながらぶらぶら歩いたのですが、当然扱っている本は英語かベンガリー、ヒンディーといったインドの言葉で書かれたものばかりで、おそらくその内容も難しい学問的なものばかりでしょうから、ハッキリ言って私にはあまり面白いものではありませんでした。でも、さぞかしオーベー人には面白いんでしょうね、ふん。

今回乗る列車は20時出発の AMRITSAR MAIL です。

インド・列車のチケット私たちの乗車駅であるハウラー駅が始発となる列車ですが、今回は三段寝台ということで、いつも利用している二段寝台より同じスペースに2名多く乗車するのです。まあそれでも席やベッドはちゃんと自分の分が確保できるので問題はないのですが、荷物置き場が心配です。なんせインド人は、ものすごい量の荷物を持って旅行をするというのが普通ですので、早く行って自分の荷物を置くスペースを確保しなければならないのです。

そんな用心で素早く乗車したために、相席の人たちはまだ来ていませんでした。

さっそく荷物をシート下の床へ突っ込み、床に付いている鎖と自前の南京錠でがっちりと固定し、やれやれと一息ついておりますと、ほ~ら、来ました来ました、荷物を両手にぶら下げたインド人たちががやがや言いながら私たちのスペースにやって来ました。
インド人は男ばかりの数名のグループのようなのですが、荷物は今手にぶら下げて来た物だけではなく、次から次へと運びこまれ、ついには床が荷物でいっぱいになってしまいました。
私たちはそんなこともあろうかと、自分たちの足をしっかりと床に着けておりましたので事なきを得ましたが、荷物を運んで来たインド人たちは足を床に下ろすことができず、靴を脱いで座席の上にアグラをかいて座りました。

そんな一大騒動が治まり、列車がゴトリと動き出すと、誰からともなく話が始まりました。
長時間の列車移動は相席の人によって居心地が左右されてしまうのですが、この時は荷物の量だけを除けば、実に陽気で親切な人たちだったので、なかなか楽しい列車旅になり、ちょっと狭い3段ベッドでも、安心して眠りに就けたのでありました。

つづく

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インドの南京錠

インド:2001年7月12日(木)カルカッタ・2001年インドの旅第85回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/12(木) カルカッタ 雨のち小雨、夕方曇り 気温28℃

昨夜は疲れから頭が少し痛かったため、バッファリンを1錠飲んで寝た。おかげで良く眠れ、本日は体調が万全であった。
しかしまたまた朝から雨、空は少し明るいが、しとしと雨が降っている。

いつもの朝食を食べ、10時過ぎまで待って外出する。
しかし雨は一向に止む気配がない。
郵便局でハガキを出し、ネットカフェで時間調整することにした。

12時過ぎ、外は依然として雨が降っている。
ニューマーケットに入ると若い男がガイドを買って出て、しつこく着いて来る。「お金はいらない。何が見たい?」とわずらわす。
ずーと無視してようやくその男が離れると、また別の男が着いて来る。そいつもあきらめ離れると、また別の男、といった具合に、外人を一人では歩かせないつもりらしい。みんな目印のようにカゴを小脇に抱えている。そのおかげで一目でそれと判りおもしろい。

ニューマーケットも衣類が中心で、あとは観光客目当てのお土産屋やアクセサリーの店が多い。
買う物もなく、反対側の出口から外へ出る。

止みそうで止まない雨の中を、ハウラー橋方面へ歩く。
ズボンの汚れが気になるが、露店を見ながらハウラー橋までたどり着いた。
上からフグリー川沿いの花のマーケットを見下ろす。
橋は少しだけ渡ってみたが、風が強く、橋が揺れていることもあり、水量の増えたフグリー川を見ていると怖くなりすぐ引き返した。
花のマーケットに下りる階段は橋のたもとにあり、頭の上に花の入った布袋を載せた人が大勢下りて行く。
下に行くと一面花の匂いがすごい。
いろいろな花飾りを売っているが、花に詳しくないので何の花だかわからない。

途中タクシーをつかまえるが、Rs.80の言い値にRs.30と言うと首を振る。それならもう少し歩こうと先へ進む。

とうもろこし屋がたくさんあり、食べたくて仕方がない。
何軒も通り過ごし、店が無くなってから少し悔み、次の店では食べようと心に決めまた歩く。
ようやく見つけた店は、おやじと若い娘がやっていた。一番小さい貧弱なやつをRs.2で買い、その場で食べる。見れば近くの交差点では、交通巡査も食べている。
小さいのを選んだので食べ足りない。しばらく歩くと今度は子どもがやっている店があった。七輪と木箱だけの店である。
Rs3のやつを買って食べた。今度は大きいので、15分くらいその場に突っ立って食べた。
写真を撮り、金をくれと言うので1ルピーあげた。

いつものレストランで水とチキンクリアスープ、それにプロウンフライドライスを食う。

ネットカフェにもう一度入り、メールチェック。

帰りにホテルの近くのチャイ屋でチャイを頼むと、大きな素焼きの容器で出して来た。Rs.5。
値段以上に入っており、腹がいっぱいになるほどだった。
容器を持ち帰り計ったら、通常容器の4倍は入るようだった。

しかしまあホントに雨がよく降ります。

インド・コルカタの豪雨を報じる新聞それでも昨日の土砂降りの雨は特別だったらしく、今朝の新聞に冠水した道路を行く人力車の写真が大きく掲載されていて、「どこもかしこも水、水!」と書かれていました。

そんな中をあのオンボロ車で出掛けていたんだなあ・・・

それから見れば今日の雨はたいしたことはありませんが、なんせ基本的に徒歩移動ですので、できれば雨が上がって欲しいものです。

まずはホテルの近場で時間をつぶし、雨が止むのを待とうとしたのですが、結局午後になっても雨は止まず、腹を決めて雨の中を歩き出しました。

特に行き先は決めていませんでしたが、昨日ガイドのボース氏から聞いた、ハウラー橋の下にあるという花市場を見てみたくなり、とりあえずハウラー橋方面へと向かうことにしました。

ぬかるんだ舗装道路(?)をズボンのすそを汚しながら歩いて行くと、やがて道は左にカーブしながら登って行き、無骨な鉄骨で組み上げられたハウラー橋に出ました。
橋の上から下を覗き込むと、なるほど川に沿って花市場があり、全体的にオレンジ色に染まっていました。
花市場にはすぐには下りて行かず、まずは橋を往復してみようと思ったのですが、橋の上は予想以上に強い風で、この頑丈そうな鉄の橋が少し揺れていて、ほんの10mほど行っただけですぐに引き返して来てしまいました。

インド・コルカタの花市場花でぱんぱんに膨らんだ布袋を頭に載せた男が下りて行く階段を、私もジャマにならないようにしながら下りて行きました。
私は市場というものは早朝からせいぜい午前中が勝負で、午後になると取引はほとんどないものと思っていたのですが、この花市場はもう午後1時を過ぎているというのになかなか盛況で、だいいちまだどんどん新しい荷が到着しているのです。いったいここの営業時間はどうなっているのでしょうか。

そんな人々の活気と花の匂いに気おされて、あまり長居をせずに花市場をあとにすると、再びぬかるんだ舗装道路をとぼとぼと歩いて帰りました。

とにかく毎日雨が降ってじめじめしているコルカタですので、食中毒には充分気をつけなければと、実は今まで露店のトウモロコシには手を出さずにいた私だったのですが、今日はフシギとトウモロコシ屋が異常に目に着き、ついに我慢しきれなくなり買って食べてしまいました。

うん、やっぱりうまい!

1本食べたらすっかり警戒心がなくなり、また別のトウモロコシ屋で追加購入。トウモロコシ屋のハシゴです。

バンガロールやチェンナイ、ハイダラバードなどでは、屋台で営業しているトウモロコシ屋が多かったのですが、ここコルカタは道端に七輪(または炭火を入れた鉄鍋)だけといった超小規模店舗が主流のようです。

インド・コルカタのトウモロコシ屋そんなトウモロコシ屋の少年を写真に撮ると、隣で玄関マットを売っていたあんちゃんがしゃしゃり出て、「金をくれ」と言うのです。

まったくう・・・少年は別にそんな要求はしてないのに・・・

しかしマット屋のあんちゃんの態度はちょっと強硬だったので、仕方なく1ルピーあげて円満解決の道を取ることにしました。まっ、あんちゃんは「もっとくれ」と言ってましたけど。

そんな感じで、毎日しとしと雨が降り続くコルカタではありますが、みんなそれぞれに(いちおう私も)がんばっているのであります。

つづく

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シンプルデザインの真鍮製シンギングボウル

インド:2001年7月11日(水)カルカッタ・2001年インドの旅第84回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/11(水) カルカッタ 大雨/曇/雨模様 気温28℃

5:20 起床

大リーグオールスター中継を見る。
イチロー、第一打席内野安打。

下痢は治まり気味。朝食は抜いて梅干のお湯割りを飲む。

今日はガイド付の車で、近くの農村に写真を撮りに行く予定なので、体調と天候が気になるところ。

9時前、ものすごい雨の降りになる。

9時5分過ぎ、ガイドのボース氏到着。

ガイド氏到着のTel.で下に降りる。
車もすでに来ていたが、運転手がいない。そのうち雨がものすごい降りになり、たちまち路肩は水浸しとなる。
運転手が戻り、車を歩道に寄せてもらい、ようやく出発。9:15

大雨の中を走り出したアンバサダーだが、ワイパーが2本とも付いておらず、おまけに運転席横の窓が閉まらず、布が垂らしてある。大雨でもあり、ぜんぜん前が見えない。よく事故を起こさないものだと感心する。

市内の渋滞でだいぶ時間を取られたが、ようやく郊外へ出ると、エントツからすごい煙が出ており、臭いもすごい。こんな所に住んでいる人は、毎日この臭いを嗅いでいるのかと思うと、他人事ながらいやになる。

バイパスの下をくぐり、川沿いの道を行くと、左側にはゴミの山。その後もゴミ置き場と化した場所が続く。カルカッタ中のゴミが集まっているとの事。ここもすごい臭いである。
それでもゴミの山から使えそうなものを拾い集める人の姿も見える。
ただゴミの山には大量のプラスチックやビニールが混ざっており、土に返らぬ山の行く末を案ずる。
また、このゴミにはおそらく有害な物質なども混入しており、多雨の土地ゆえ、ゴミの山から流れ出た水が周りの環境を汚染するのではと心配になる。現に横に流れる川は悪臭を発して淀んでおり、この近辺住民の生活汚水だけとは考えられない。
その土手のすぐ脇の畑では作物が実っており、また、ゴミをたい肥のようにして、作物を作っている畑も見られた。
今後、住民の健康状態に影響がなければ良いと案ずるのみである。

村の入口へ到着。
道沿いの川を渡り徒歩で入るとのこと。
外はまたしても大雨のため、10分程車中で待機する。
やがて小雨になったので、ようやく橋を渡り村に入る。
村は、田んぼの中の道を進んで行くと、一軒、また一軒と家があるという集落であった。
田植えをしている所や、田起こしの最中の所、すでにきれいに稲の植えてある所などを見ながら集落を進む。
のどかな田園風景で、村人もとてもおだやかな顔をしている。
雨の中を田植えやその他の仕事をしている人がいる一方で、トランプに興じる村人達もいる。休日をどのように決めているのであろうか?

車の所に戻り、チャイを飲む。

村を後にし、植物園に行く。

入口の小屋でパスポートを見せ、台帳に記入、そしてチップ(Rs.10)を渡して車のまま入園する。

途中で車から降り、歩いて回る。
シバリンガの木やマホガニー、マッドトゥリーなどを見て、目的の樹齢240年のバニヤンの木に到達する。
さすがに一本の木とは思えぬほどの、林のような姿に圧倒される。
傘の大きさ480mというこの大木の枝の下を歩きながら、強い日差しの下で写真を撮りたかったと思った。

植物園を出てレストランへ行く。
食事は2人分でRs.156.90だった。

サダルストリートにて下車。

しかしまあ、まさかイチローのメジャーリーグ・オールスターゲーム初打席を、コルカタ(カルカッタ)で見るとは思ってもみませんでした。

内容は内野安打ということで、実にイチローらしいデビュー(オールスターゲームの)になってよかったなあと思ったわけです。

一方私はといえば、今日はチャーターした車で農村に行く日だというのに、外は強い雨が降っています。
これでは農村を見て歩くのが大変・・・というか、もしかしたら不可能になってしまうかもしれません。

でもまあそんときゃそんときで、どこか別の所に行くとか、なんだったら一日車でぐるぐる街を周ってもらってもいいのです。
なにしろ車に乗ってしまえば、雨なんかぜんぜん問題ないわけですから。

ところがです。

それがそうでもなかったのです。

ホテルの部屋でオールスターゲームを観戦していると、フロントから「ガイドが到着しました」との電話が入り、私は少し心を弾ませながら下りて行きました。

ガイド氏はフロントの横で待っており、私を見とめると「私はボースと申しますと」と言いました。ITDCのおっさんの発音は「ブース」と聞こえたのですが、まあたいした違いではありません。
インド・雨季のコルカタ自己紹介を終え、私たちはホテルの前に出たのですが、その途端雨脚が一気に激しくなり、見る見るうちに道路が冠水して行きます。
ボース氏は「車はあそこに停まってるんですけどねえ」とニューマーケットの前の広場を指さすのですが、そこまで行くだけでも、服はずぶ濡れ、靴は水浸しになりそうです。
ちょうどその時、朝食でも食べに行ってたのか車を離れていたドライバーが大雨の中を戻って来たので、ボース氏がこっちに車を回すように指示しました。そうそう、そう来なくっちゃ。

そんなわけで私とボース氏はほとんど濡れることなく車に乗り込めたのですが、ホッとしたのもつかの間、走り出した車の前方視界が異様に悪いのです。
そりゃあ確かにワイパーも効かないようなものすごい土砂降りの雨なのですが・・・って、あーた、そのワイパーがないのです、2本とも。
そのことはボース氏もすぐに気が付いて、「ワイパーどうしたの?」とドライバーに聞いたのですが、ドライバーは苦笑いしながら、助手席に座るボース氏の足元を指さしました。
私は後部座席から少し身を乗り出しボース氏の足元を見てみると、そこには取り外された2本のワイパーが転がっていたのであります。なんでだよ!

インド・雨季のコルカタさらに気になったのは、ドライバー側のドアの窓に、赤黒い布が垂らされていることでした。
そのことについてもボース氏が「なに?それ」と聞いたところ、ドライバーは布をめくり上げて見せ、「ほら、窓ガラスが上がらなくなっちゃったので、布をドアに挟んでいるわけですよ」なんてことを説明するのです。
確かに窓ガラスの上に10cmくらいの隙間ができていて、布を垂らさないと雨がまともに車内に入って来てしまうことでしょう。

しかし所詮布は布、ガラスの代わりにはなりません。だいいち布は透明ではありませんので、視界がすこぶる悪くなるわけです。
つまりこの車は前方は大雨の流れるままの滝越しにしか見えず、右側は赤黒い布で遮られ、さらにエアコンどころかデフレフターもついていない車内は、私たち3人の吐く息で徐々に曇り始めて来ており、もうほとんど外界の様子がよくわからない状態のまま、結構なスピードで走っているのであります。おー、こわ。

コルカタの街の朝の渋滞を抜け、車はいよいよスピードを上げて走り出しました。
そうなると、ドライバーの横の赤黒い布が風にあおられめくれ上がり、雨がばんばん車内に吹き込み始めました。
それまで私は後部座席の真中にでんと座っていたのですが、吹き込む雨でシートの右半分が濡れ出してしまったため、以降は身をひそめるように左側のドアに寄りかかって座ることになってしまいました。

お目当ての農村に着いてしばらくすると、天の恵みか小雨になり、お陰さまで村をゆっくり見て回ることができました。
なのでせっかくチャーターした車が、ひどいオンボロだったということは、この際大雨の水に流してあげるのであります。

それより驚いたのが(まあ車にも驚いたのですが)、コルカタ郊外のゴミの山でした。
この降水量の多い街の野積みのゴミからは、おそらくいろんなものが流れ出ると思うわけです。なにしろゴミはきちんとした分別がされてるようには見えませんでしたので。
それに近くの畑では、ビニールが混ざったゴミをたい肥のようにして耕している光景を目撃してしまい、しかもその辺りはトウモロコシ畑ばかりだったので、「ありゃ・・・もしかしたら私が道端でよく買って食べるトウモロコシも、あんな風に育てられたのかしらん?」と、急に不安になってしまったわけです。

大事に至る前に、市もしくは国の、早急なる安全対策を望む次第であります。

さて、その後はまだ少し時間があったので、植物園に巨大バニヤンを見に行きました。

植物園の入口で、ボース氏に促されるままにパスポートを提示し、台帳に記入し、さらに係の人にチップとして10ルピーを差し出すと、なんと車のまま園内に入ることができました。
でもこれって、正式な手続きによる正当な入園方法なのでしょうか?

たとえ10ルピーとはいえ、金品を渡して便宜を図ってもらおうなんてことは、本来正しき道を歩む人間のすべきことではないのではないでしょうか!

な~んてことは、チェンナイの神智学協会でズルして入ろうとした私には、決して主張できることではないのです。

とにかくまだ小雨が降り続いておりましたので、この場合は車のまま入れてよかったなあ!と素直に喜んでしまうのであります。

樹齢240年というバニヤンの木は、横に張り出した太い枝から気根と呼ばれる根を次々に地上に降ろし、それがまた幹と成り枝を支え、その繰り返しでついにはその周囲が480mという巨大なテリトリーを造り上げておりました。

そんな自然の驚異ともいえる巨大バニヤンを、カメラに収めようとしたら・・・

大き過ぎてどこをどう写せばいいのか迷ってしまい、結局こんなよくわからない写真になってしまいました。

インド・コルカタの巨大バニアンあ~あ。

つづく

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インドの伝統工芸細密画

インド:2001年7月10日(火)カルカッタ・2001年インドの旅第83回

この記事は2001年にインドを旅した時のメモを元に、遠ざかりつつある記憶を引き戻し加筆、補足したものです。つまりこのブログを利用してもう一度旅をなぞり、記録を整理しようというわけなのであります。なので最新のインド事情ではありませんので、参考程度(まあ他の記事も同じようなものですが)にお読み下さい。 尚、記事は概ね時系列で書き連ねて参りますので、「あれ?これ前にどこかで見たなあ」というものも出て来よーかと思いますが、そこらへんはどうぞご了承下さいませ。
〔当時のメモより〕
*金額に関しては当時Rs.1が約2.7円、3倍にして1割引けば簡単に計算できます。

7/10(火) カルカッタ 雨模様 気温28℃

6時前、目が覚める。
トイレに行くと下痢をしていた。少し心配。
朝食はいつものメニューだったが、トーストがしけり気味で固く、オムレツも残り少なかった。

10時過ぎ、残りの部屋代Rs.4,240払い、外出。
郵便局でハガキを出し、そのままネットカフェへ Rs.100かかる

昼食
フレンチオニオンスープ
プロウンフライドライス
ミネラルウォーター
ミルクティー
合計Rs.76

結局3時前には Hotel へ帰ってしまう。

胃が動かず、胃散と梅干を取る。

正露丸の飲み過ぎ(8錠 x 2)か? トイレに行っても出なくなってしまった。

インドに来てから丁度2か月が経ち、かなり疲れも溜まって来ているわけですが、ここコルカタに入ると雨季の空の重苦しさが伝染したように体がだるくなり、ついにまた下痢になってしまいました。とほほ・・・

私は梅干しをいくつか(たしか30個くらいだったかな)持って来ておりまして、体が疲れたりするとそれをお湯で割って飲んでいたのですが、ついにそれも残り少なくなって来ました。

インド・コルカタのホテルの部屋からの眺めそんな体調では食欲もあまり出ないのですが、路地を一本入ったところにある安宿街のサダルストリートに行けば、節約タイプの外国人旅行者向けの安くておいしい食堂があり、そこでは洋風のスープが飲めるので実に助かります。温かいスープが疲れた体に染み渡り、なんだかホッとするのです。

この日の昼食はそんな安食堂のひとつ「KHWAJA」で、フレンチオニオンスープとエビピラフ、そしてミネラルウォーターにミルクティーとおしゃれ(?)に決めて76ルピーでした。
昨日はバーの様な店にうっかり入ってしまい、ガーリックチキンとライス、それからミネラルウォーターという内容で200ルピーも取られてしまいましたので、余計に今日の食事が安く感じられるのです。なんせほぼ3分の1ですもんね。

さて、明日は一日チャーターした車で農村に行くわけですが、はたしてそれまでに下痢が治まるでしょうか。
ちょっと不安です。

つづく

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インドのマフラー