インド関連本紹介:「インドでわしも考えた」椎名誠・著

「インドでわしも考えた」椎名誠・著
ご存知椎名誠氏の著書である。

内容は週刊誌連載企画としてのインド旅行記であるのだが、その旅の大きな目的として「空中に三メートルも浮いてしまうヨガ行者」を探すということが据えられる。
そして勇躍乗り込んだインドの大地で、氏を待ち受け襲い来る数々の出来事を、氏ならではの視点と感性で受け止め、抜群のユーモアでもって切り捨てるというものである。

私としては初めて読んだ氏の著書であり、それだけにインパクトがすごかった。
インドに行くにあたり、インド関連の本を読もうと本屋を捜し歩いていたのだが、当時(1985年頃)は一般的なインド紹介本はあまりなかった。少なくとも地方の町の本屋などでは、置いてあるのは普通に売れそうな本ばかりで、少しでも道を外れた(?)売れ残り必至の本を置くという冒険は決してしていなかった。

そんな中、どこの本屋でも簡単に手に入り、しかも気軽に読めるインド本といえば、妹尾河童氏の「河童の覗いたインド」と本書くらいなものではなかっただろうか。
とにかく私は、インドに行く前にいろいろな情報が知りたく本を捜し歩き、ようやくこの本を手にしたのだが、読み始めてすぐに次のような一文が目に飛び込んできた。

インドに行くにあたってインドの本を読んだり最新情報を聞いたりガイドブックを読んだりするようなことは一切やめよう、ということにした。
【椎名誠:著「インドでわしも考えた」小学館刊より引用】

げげっ、いきなり否定されちゃったよ。

まあこれは著者自身がインドに行くにあたり、インド関連の先達たちの厳しい視線を意識しての決意ではあるのだが、その逆をしている私としては自分が実に姑息な人間のように思えて来た。
でも考えてみれば、この本だってインドのことを紹介する本である。読んでる人はみんな「本からでもいいからインドを知りたい」という人なのである。だからその一文はなんだか禅問答のようでもあり、ちょっと意地悪なんじゃないかと思うのである。
しかも立ち読みではなく、もうお金を出して買っちゃった後だったので、そこは「他人は他人、自分は自分」と割り切ることにした。

で、氏をそうした気持ちにさせた原因となる一文が冒頭に出て来る。

インドに行くことになった。毎度ながら別にたいしてスルドイ目的意識やテーマというものはない。それじゃあこのへんでそろそろインドへ行ってみましょうか? うーんそうですなあ、というような程度である。しかしインドという国はこの程度の意識と態度ではたちまちインド研究家およびインド崇奉派および印度的瞑想思索人およびインド哲学放浪者(中略)等々からさまざまな批難指弾のひとかたまりを浴びそうなこころもとなさ、というのがある。
【椎名誠:著「インドでわしも考えた」小学館刊冒頭部より引用】

確かにインドに関してはいまだに神秘的なところや、深く考えさせられてしまうことなどもあったりする。身分差別や貧困、国中にあふれるあまたの神々と人の死のあまりに身近なことなどなど・・・
もちろんそういう深刻、深遠な問題をちゃかすのは良くないが、日本がフジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ、オタクだけの国ではないように、インドもそれだけの国ではないのである。

健康維持に栄養バランスが大切なように、インド感にもバランスが必要である。
今回紹介している本は、わが国初の「肩に力を入れずに読めるインド関連本」であり、つい偏りがちになるインド感にほどよいバランスを取り戻すためのサプリメント的な役割を持つのではないかと思うのである。

とまあ、ホントはこんな説明なんかまったく必要ない、読めば抱腹絶倒間違いなしのインド関連本なのである。

インドのショール

インド関連本紹介:「深い河」遠藤周作・著

深い河:遠藤周作
この本は芥川賞作家、遠藤周作の「最後の純文学長編」である。(と本の帯に書いてあった)

話の概要としては、インド旅行に参加した5人の人間模様を通し、宗教とは何か、信仰とは何かを問いかけるものとなっている。
主な登場人物の5人には、それぞれの人生で背負ってしまった重荷があり、それがためにインド旅行への参加を決意する。そして訪れたガンジス河の聖地ヴァーラーナスィで、それぞれに何かを感じるというものである。

でも、ここではそれ以上の内容には踏み込まず、あくまでもインドがらみでお話しさせていただくとする。

主人公とその関連人物は、もともとインドとはまったく縁のない人生を送っていた。(だからツアーでの参加なのだが)
しかし登場人物の中で唯一、ツアー添乗員である江波は四年間のインド留学の経験があり、その流れで添乗員として働くことになったのだが、インドに関する知識と思い入れが深いため、たびたびツアー参加者の安易なインド感にムキになって応対してしまう。

そんな彼の思いを描いたシーンを以下に抜き出してみる。

 
江波は午前中、わざとガンジス河のガートに行くことを避けたが、それは日本人観光客たちにたんなる好奇心でこの聖なる河、聖なる儀式、聖なる死の場所を見学させたくなかったからである。日本人たちが沐浴しているヒンズー教徒を舟上から見て必ず言う言葉は決っていた。
「死体の灰を川に流すなんて」
「よく病気にならないね、印度人たち」
「たまらないな、この臭い・・・・・・印度人、平気なんだろうか」
今度もいずれは軽蔑と偏見のまじった観光客のそんな声をきかねばならぬが、それは夕暮で結構だ。
【遠藤周作著「深い河」講談社文庫版より引用】
 

ヒンドゥー教徒(作品の中では「ヒンズー教徒」と表記)は輪廻転生を信じる。そのことはこの作品の中にも繰り返し出て来る。そしてヒンドゥー教徒の最終的な願いは、その輪廻からの解脱である。そのためみなガンジス河までやって来るのである。

ツアー添乗員江波も、日本人旅行者を案内して何度もガンジス河にやって来る。
まさしくそれは輪廻のようであり、その都度上記引用文のような思いをさせられ、ストレスが溜まることであろう。インド人が生きることは苦しいことであると思うように、江波にとって添乗という仕事は苦しいものなのだ。しかし苦しくとも生きねばならないのが人生であり、苦しくとも働かなければならないのが生活というものなのである。

はたして江波には、いつ解脱の時が訪れるのであろうか。

私は作品の本題とはまた別に、そんなことを考えてしまったのである。

インド先住民族の工芸品ドクラ