石もて追われるようなことは決してするでないぞ:インドの列車への狼藉

前回前々回に続いてシャタブディ・エクスプレスの話である。

今までインドの列車には何度も乗ったが、今回初めて気づいたことがあった。

それがこれ、窓ガラスのヒビである。
インド・列車への投石まあ常日頃から物の取り扱いが荒っぽく(特に自分の物ではない場合など)、またメンテナンスの行き届かないインドでは、列車の窓ガラスにヒビが入っていて、それがしばらく放置されていても特に不思議ではない。

なので今までこういう光景を見てもあまり気にならなかっただけなのかもしれない。

インド・列車への投石しかし同じ列車の同じ車両で、いくつもの窓ガラスにヒビが入っているのを見たら、さすがにこれは異常と思わざるを得ない。いくらインドといってもである。

ほら、こちらは並んで二つ、まるで銃撃を受けた防弾ガラスのようになっている。

これはおそらく、いやまず間違いなく投石によるものであろう。

列車への投石に関しては、その昔チェンナイ滞在中にちょっとした暴動騒ぎがあり、その際暴徒らによる駅のチケットカウンターの焼き討ちと並んで、列車への投石があったというニュースを見た。
そして最近も、列車への投石が問題となっているというニュースを聞きかじってはいたが、こうして実際に窓ガラスのおびただしい数の損傷個所を目にすると、なるほど投石はなにも暴動の時だけでなく、もはや日常茶飯事と化しているのだなあと実感したのである。

窓ガラスが壊れるのも困るが、窓を開けっぱなしにしているところを狙われたらそれこそ大変である。なにしろインドの列車は今でも冷房がなく、窓を開け放している車両が大半なのであるから、石が体に当たれば大けがあるいは死に至ることだってありとても危険である。

でもたぶんその可能性は低いのだろうと思う。そもそも暴徒の行動でもわかるように、こうした投石の要因は日ごろの不満の表れであり、その矛先は上級列車(上級車両)に向かうであろうと思われるからである。

インド・列車への投石そこで狙われるのが、シャタブディやラージダニのような上級車両だけで編成されている列車であろう。

しかもご丁寧なことにシャタブディは水色、ラージダニは赤と、他の列車との違いを車両の塗装で表しているのだから、狙う方からすればこんな好都合なことはないのである。

と、今回のインドの旅では初めての乗車列車となったシャタブディ・エクスプレスでそんなことを思ったのであるが、期せずして最後の乗車列車となったのもまたシャタブディ・エクスプレスであった。

20時30分、ラクナウからニューデリーに向かっていたその列車は、30分ほど遅れてアリガル・ジャンクション駅に到着する直前であったが、突然バシッ!というするどい音が車内に響いた。

インド・列車への投石私は驚いて斜め前方の窓(ひとつ前の席の窓)を眺めると、あらら、なんとまあ窓ガラスにヒビが入っているじゃないの。しかもその真ん中には穴まであいているじゃないのよ。
それにしてもまさか自分の乗ってるすぐそばに投石されるとは思ってもみなかった。

まあ窓は二重ガラスになっているので、外側のガラスが割れただけで車内には特に影響はなかったが、その席は若夫婦と小さい子供が座っており、もし万が一石やガラスの破片が車内に飛び散ったらと思うと実に怖かった。

証拠もなくこうした仕業を貧困層の人たちによるものだと決めつけるのはよくないが、大きな駅の近くの線路際がスラム化していることも事実である。

で、これはあくまでひとつの仮説として言うのだが、もしそうした貧困層の子供が列車に向かって投石しているのであるなら、ぜひそのピッチング技術をクリケットの練習につぎ込み、プロ・クリケット選手になることを目指して欲しいと切に願う次第である。

あの天上に輝く明星がプロリーグの星だ!

あの星まで駆け上がれ!

人の想いは言葉の壁をも越えるのか:インドの物売り

「マッチ売りの少女」はとても悲しいお話である。

暮れも押し迫った凍てつく街頭でひたすらマッチを売り続ける少女。しかし足早に通り過ぎる人々は誰もマッチを買ってくれない・・・

私は小さい頃この本を母親に読んでもらいながら「誰かマッチを買ってやればいいのに」と憤ったものである。

でもそれは、この話がマッチ売りの少女目線で書かれているためである。

じゃあ実際に年末のあわただしいさなかに街角でマッチを買うかといえば、たぶん私は買わないと思う。

インド:交差点での物売りインドには小商人(こあきんど)がたくさんいる。彼らは身一つで元締めから託された商品をひたすら売り歩く。

彼らは街中にもいるし、大通りの交差点にもいる。そう赤信号で止まった車相手に商売をするのである。

売り歩く商品は様々である。
たとえばタオルを山ほど抱えて売りに来る少年がいる。
少年は信号待ちの車の間を移動しながら、一台一台タオルを広げて見せる。
まあタオルなら生活必需品なので売れるのではなかろうか。私は買わないけど。

新聞や雑誌を売りに来るじいさんがいる。
これも必要な人は買うであろう。もっとも私は読めないので買わないが。

インド:交差点での物売りそうかと思えば一抱えもある大きな風船を売りに来る青年がいる。
こんなもの誰が買うのかと思えば、これが意外と売れている。
これは使用時の商品の大きさに対して受け取る商品(ふくらます前の風船ね)が小さいので、売る方も買う方も楽であろう。ただし買った風船が見本のもののように大きくふくらむかはわからないが・・・

私が乗っていた車にも少年の売り子が来た。
少年が扱っている商品はボールペンである。
少年は買ってくれと言う。
私はいらないと答える。
そんな押し問答が何度か続く。
そうこうするうち前方の信号が青になった。
と、少年は少し開いた窓の上からボールペンを差し入れて来た。
私はあわててそれを押し戻す。
車がゆっくり動き出し、少年もようやくあきらめボールペンを引っ込め車から離れて行く。
あー、よかった・・・
しかし少年は車から離れる際、なにやらするどく言葉を言い放った。
いわゆる捨てゼリフというやつで、その雰囲気からしてちょっとした呪いの言葉のようにも聞こえたが、私はインドの言葉がわからないのでこんな時は大いに助かる。なにしろ呪いの言葉なんてものは、意味が分かって初めて心理的効果を表すものなのだ。

ところが、車が走り出してしばらくすると私の体に異変が起こった。
なんだか急に下っ腹が痛んで来たのである。
目的地に着いてからも腹の痛みは増すばかりで、昼時でもあったのでレストランに入り、すかさずトイレに駆け込んだ。

ひどい下痢をしていた。朝まではなんともなかったのに・・・

う~ん・・・もしかしたらこれはあの少年の呪いなのであろうか。
そしておそらく少年は私にこう言ったのであろう。

くそったれ!

と・・・

まったく人の想いというのは時として恐ろしい力をもつものなのだなあ。

ちなみに少年の呪いは二日間有効であった。

くそ・・・

罪のない遊び心は心を和ませてくれるのだ:インドの路上に見た砂の芸術

海の日に合わせるかのように各地で梅雨明けし、ついに本格的な夏がやって参りました。

ということで、みなさん

暑中お見舞い申し上げます

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さて、砂浜の海水浴場などに行くと、最初の頃は波と戯れたり泳いだりするものの、そのうち疲れて砂浜にどっかと座り込み、気が付けば大きな砂山を無心に作っていたなんて経験が誰しもあるのではないだろうか。
中には結構本格的な砂の作品作りに挑戦している人などもいたりする。
もしかしたら砂遊びというのは、もともと人間に備わっている本能なのかもしれない。

で、こちらは海ではないのだが、デリー中心地のコンノートプレイスからニューデリー駅に向かうチェルムスフォード通りで見た光景である。

インド、砂の芸術作品その通りは広い道路の両側に補助道路のようなものがつけられているのだが、そこに工事用に使うのであろう砂が置かれていた。

まあ初めはただの砂山だと思っていたので、特に気にも留めずに横を通り過ぎようとしていたのだが、近づくにつれ砂山になにやら手が加えられているのに気が付いた。

インド、砂の芸術作品人の顔である。
しかも首飾りのような装飾までされている。

残念ながら私が見たときにはもうあちこち壊れかかってしまっていたが、おそらく小さな子供ではないであろう作者(たち)が、せっせとこの顔を作っている姿を想像したら、なんとも可笑しく気持ちが和らぐのを感じた。
芸術作品が作者の思いを見る側へ伝えるものであるなら、この砂の顔は立派な芸術作品と言えるであろう。
おそらくこの作者は作りながらすごく楽しかったに違いない。もしかしたらクスクス笑いながら作っていたかもしれない。それをすごく感じるのであった。

と、騒がしい大都会デリーに在って、ひとときの心の安らぎを覚えていた私であったのだが、すっと私の横に歩み寄り「こういうの好きか?」と話しかけて来る男があった。
そう、そいつはいつでもどこでもほんのちょっとの「チャンス」があれば蠅のように群がって来る輩で、とにかくカモと話すきっかけを作り出し、やがて本題の「すぐそこに政府のお土産屋がある」という話に持っていくのだ。
まったくやつらは芸術鑑賞をするなどという、心の余裕などまったく持ち合わせていないのである。

私は先ほどまでの和やかな気持ちから、急激に通常のデリーモードに引き戻され、そいつに一瞥もくれずに「いや、嫌いだね」と言って足早にその場を離れたのだが、後から考えてみると、その男があの作品の作者だった可能性もないわけではないのである。

いや、ないわけでもないというか、実際そうなのかもしれないぞ・・・なにしろあの場所にいたんだからな。

そうか、あいつはただ単に自分の作品に対する批評を聞きたかっただけなのか。

それはすまないことをした、あんなに冷たい態度を取って。
本当は好きだぞ、ああいうの。

結局心に余裕のないのは、この私の方なのであった。

罪を憎んで人を憎まず:インドでのオートリキシャの相乗り

インド、特に地方ではオートリキシャの相乗りは珍しくない。

インド、オートリキシャの相乗りまたオートリキシャに乗っている時、急に警察官が乗り込んで来ることもたまにある。
これは別に警察官の職務として、ドライバーが遵法運転を心がけているかをチェックしているわけではなく、おそらく歩くのが面倒な時(たとえば出勤時や帰宅時など)の私的利用に近いものだと思う。
まあもしかしたらインドの警察官には、公営並びに民営輸送機関にタダで乗車できるという特権が与えられているのかもしれないが、そこのところはよくわからない。

とにかくインドでは、オートリキシャがいきなり止められ、警察官が乗り込んで来てもさほど驚かないのである。

しかし先日のデリーでのケースは少々様子が違っていた。

インド、護送される犯人なにしろその時は警察官一人ではなく、お連れの方がいらっしゃったのである。

お連れの方は警察官のエスコートの下、よりによって私の正面にお座りになられた。ちなみにこの時の乗り物は電動オートで、後部座席は向かい合わせの日本的常識で四人掛け、インド的常識では六人掛けというものだった。

インド、護送される犯人膝がしらが触れ合わんばかりの至近距離に、こうしたVIP待遇の方がおられるのが恐れ多いというか恐ろしいというかで、私は生きた心地がしなかった。
しかし罪を憎んで人を憎まず、この方が何をおやりになられたかは定かでないが、きっとやむにやまれぬ事情があったのだろう。もし食べ物の万引きなら、もう5日ほど何も食べていなかったのかもしれないし、もし傷害なら、相手が「お前の母ちゃんデベソ」などと母親を愚弄する言葉を投げかけた可能性も否定できない。物事は常に視点を変えるとまた違った見え方がするものなのである。

犯人護送のシーンといえば、映画「遥かなる山の呼び声」のラストシーンである。
あまり余計な事を書くと映画のネタバレになるので控えるが、とにかくそのシーンが泣かせるのである。
どんな人にもその人なりの人生があり、また人はやり直すことができるのだという希望を持たせる、そんなラストシーンであった。

インドでは母なる大河ガンガーの流れは、それまでに犯した罪を洗い流すと言われている。
このVIPなお方も法的に罪を償ったのちガンジス河で沐浴し、新たな人生を歩まれんことを願いつつ、警察署前で降りて行かれたおふたりの背中に合掌するとともに、ホッと胸をなでおろす私なのであった。

急がば回れと言うけれど:インドで線路を越える

アーマダバードのキャリコ博物館に行った帰り、市の中心部へ帰るバスの乗り場を尋ねたら、線路の向こう側だと言われた。

インドの地下道まあ線路はすぐ目の前なので、距離はたいしてないのだが、線路を渡るにはこの地下道を通らなければならないようだった。

しかし車がバンバン通っている薄暗い地下通路を、車に注意しながら歩いて行く気がしなかった。なにしろこちらが注意していても、車の方で注意を払ってくれなきゃイチコロなのである。

なので私は直接線路を横切ることにした。

インドの線路もっともこちらも結構危ないわけだが、列車は車ほど頻繁には来ないし、線路以外の所に突っ込んでくることもまずない(インドは脱線事故もわりと多いけど)ので、こちらの方が数段安全と踏んだのである。

ただ線路内に立ち入る際には、列車に轢かれないように注意する以外に、列車のトイレから落とされて行ったものたちにも、充分気を付ける必要があるのである。

安全だと踏んだのに、違うものも踏んじゃったよ!