2016年グジャラート再訪・第30回 / ジュナーガルの街散策その3・バザールにて

狭い路地に小さな店がびっしり並ぶ、ジュナーガルのバザールを歩く。

大きな旧市街のバザールなどでは道に迷うこともあるが、特に時間が無かったり、なにか用事があったりしない限りそれもまた面白い。

インド、ジュナーガルのバザール

小さな店が延々と続く

ジュナーガルのバザールはそれほど大きなものではないが、それでもいくつか分かれ道があったり、アーチ型の通路を通り抜けたりとなかなか楽しい。

インド、ジュナーガルのバザール

入り組んだ路地にアーチが良く似合う。

そんな風に特に目的もなくウロウロしていたら、店先から声がかかった。
見れば小さな靴屋、いや、サンダル屋のおやじが声を掛けてきたようであった。

インド、ジュナーガルのバザールのサンダル屋

この店はサンダルだけで勝負しているのだ。

なんだろうと近づいていくと、ちょっとここで休んで行けと言う。
もっともおやじは英語を話さず、こちらはグジャラート語がわからないので確かではないのだが、きっとそう言ってるのに違いない。
11月とは言えグジャラートの昼の盛りは暑い。それに何か用事があるわけではないので、お言葉に甘えて店先に腰掛けさせてもらった。

インド、ジュナーガルのバザールのサンダル屋のおやじ

言葉はできたに越したことはないが、時には言葉が無くても通じることもあるのだ。

ただしさすがに込み入った話はできない。せいぜい「どこから来た?」(たぶん)と聞かれ「ジャーパーン」と答えるくらいである。
そんな会話はものの10秒ほどで済んでしまうので、あとはひたすら黙って座っているだけである。まあおやじと向かい合って座っているわけではなく、二人して外を向いて座っているので特に気まずさはない。
するとおやじが「チャイを飲むか?」と聞いて来たので(「チャイ」だけはわかるのでまず間違いはない)、「飲む」と即答する。

おやじは店をほったらかしてチャイ屋に行ってしまった。
こんな時にお客さんが来たら困るなと思っていると、一人のおばさんがやって来た。世の中とかくそういうものである。
仕方がないので身振りと英語で店主の不在を説明し、よかったら店主が戻るまで店の中を見ていてくれと言うがやはり通じない。
ところがおばさんはおだやかな笑顔で私に「お金をくれ」と言い出した。もちろんこれも手振りでわかったのだが。
とにかくお客さんではないらしいのだが、おばさんの服装は特に汚いわけではなく、また柔らかい物腰とにこやかな態度で到底物乞いとは思えない。
私がおばさんの真意を汲みかねていると、今度はなにやら歌を歌い出した。小さな声ではあるが、歳に似合わぬかわいらしい声で楽しそうに歌う。ますますおばさんへの対応の仕方がわからなくなった。
するとそこを通りがかったおっさんが、すかさずおばさんに10ルピー札を渡し、なにやらにこやかに声までかけて去って行った。ありゃりゃ・・・
おばさんはもらった10ルピー札を私にひらひら見せて、「ほらね、みんな私にお金をくれるんだよ」と言うのである。(これも想像ではあるが、たぶんかなり近いと思う)
事ここに至ると私も少しお金を出すようかなと思ったが、おばさんはくるっと背を向け、歌いながら行ってしまった。たぶんいつまでも言葉もわからんやつの相手をしていても、どうにもならんとあきらめたのだろう。
しかしあのおばさんはいったい何者だったのだろうか。

そんな心細い思いをしたので余計に時間が長く感じたが、実際おっさんが戻って来るまで10分くらいかかった。

すぐ近くにチャイ屋がある場合は、店の小僧がグラスに入れたチャイを出前してくれることもあるが、ここではビニール袋に入れたチャイをおっさんが持ち帰って来た。小さな紙コップもちゃんと二つおやじのシャツの胸ポケットに入っている。

インド、ジュナーガルのバザールのサンダル屋のおやじ

テイクアウトのチャイはビニール袋に入れてくれる。

さすがにプロはすごい。ビニール袋に入ったチャイは紙コップにぴったり二杯分あった。

インド、ジュナーガルのバザールのサンダル屋のおやじがくれたチャイ

この量がまたいいのだ。

この少しのチャイをインド人たちは時間をかけてゆっくり飲む。
私もなるべくゆっくり飲もうとするのだが、なかなかインド人のようにはいかない。

インド、ジュナーガルのバザールのサンダル屋のおやじ

おやじは手もみをして「へえ、何を差し上げましょう」と言っているのではない。タバコを吸っているだけなのだ。

おやじはタバコ吸いなので日本のタバコが欲しかったようだが、私は吸わないので当然タバコなど持っていない。
代わりにいつも持ち歩いている個別包装のフルーツキャンディーを二つあげ、おやじに礼を言って店をあとにしたのであった。

*情報はすべて2016年11月時点のものです。

前のページへ行く目次へ行く次のページへ行く

インドのマフラー

楽しい時はあっという間に過ぎ去るのである・ガンディー大学にて

10月2日はインド建国の父、マハトマ・ガンディーの誕生日である。
なので今回はガンディーにちょこっと関係する話をさせていただきたいと思う。

昨年(2016年)のアーマダバード滞在の折、念願かなってガンディー大学を見学して来た。

1920年、ガンディーはインド人のための大学を、グジャラート州アーマダバードに開校させた。
正式名称は「Gujarat Vidyapith」(開校当初は「Rashtriya Vidyapith」)と言う。ガンディーは学校の名前に自分の名を冠したりしないのである。

インド・アーマダバードにあるガンディー大学の正門

正門の上には独立運動の象徴となったチャルカ(糸車)が掲げられている。

まあここではわかりやすく「ガンディー大学」と呼ばせていただくが、そのガンディー大学で長年勉強されていたK氏(日本人)が、いよいよ卒業され日本に帰国されるということで、最後のチャンスとばかりに迷惑をかえりみずお邪魔した次第である。

実はK氏とはそれまで面識がなかった。しかしまったくの見ず知らずというわけではなく、共通の友人であるインド在住のM氏を通じてメールでのやり取りはあり、また何年か前にはお煎餅の差し入れをしたり(残念ながらその時は都合が合わずお会いできなかった)、逆にこちらの仕入れを手伝っていただいたりという間柄なのである。

とにかく昨年ようやくお会いすることができ、さらにガンディー大学の構内をあちこち案内していただきながら、本や映画だけではわからないガンディーに関するレクチャーを受けるという、もうガンディー好きにはたまらないひと時を過ごさせていただいた。

*その見学内容はまた別の機会に詳しくさせていただきます。

見学の最後に、構内のカフェテリアでチャイをご馳走になりながら、さらにいろいろな話をお聞きした。

インド・ガンディー大学のカフェテリアのチャイ

さすがガンディー大学のチャイ、この一杯が5ルピー(約8円)ととても安い。

私としては聞きたいことが山ほどあり、またK氏の話はどれも本当に面白く、つい時間の過ぎるのを忘れてしまっていたのだが、K氏は卒業間際ということもありなにかと忙しい身である。
そんな時、どこからともなくハヌマーン・ラングールという大きな猿がやって来て、傍らの柵にひょいっと飛び乗った。そしてK氏はその猿を見て、「あっ、もうハヌマーンが来る時間か」とつぶやき、次の予定へと移る時間が来たことを私に告げた。

インド・ガンディー大学のカフェテリアに来た猿

先々の、時計になれや小商人(こあきんど)。 毎日同じ時刻にやって来る物売りは時計代わりになり、同じ時刻にやって来る猿は、そろそろ去る時間だよと教えてくれる。

ガンディーのトレードマークの一つに、愛用の丸い懐中時計がある。
あれはガンディーが約束の時間に遅れないようにするため、いつも持ち歩いていたものだということだが、さすがガンディー大学にいる猿である、時間にはなかなか正確のようだ。

私も夕刻の列車でアーマダバードを発つことになっていた。
本当に名残惜しくはあったが、K氏とは日本での再会を約し、ハヌマーンにうながされるようにしてガンディー大学をあとにしたのであった。

お忙しい中お付き合いいただいたK氏に、ここであらためて厚くお礼を申し上げるとともに、これからのご活躍を心よりご祈念申し上げる次第なのである。

本当にありがとうございました。

シンプルデザインの真鍮製シンギングボウル

バルジの影を慕いて:インドのタクシードライバー

インドでいつも決まったタクシードライバーがいると便利である。
特に仕事で何度もインドに行く場合、こちらの行動パターンや行き先を熟知してくれているタクシードライバーがいると実に楽である。

ところが先日の渡印の際、10年以上の付き合いでお互い気心の知れたタクシードライバー「バルジ」が亡くなったと知り愕然となった。
もちろん愕然となった理由は彼の死そのものであるのだが、それはそのまま今回のデリーでの行動が今まで通りには行かないということも意味しており、その点に於いても少々困った事態なのであった。

バルジの死を教えてくれたオートリキシャのドライバーは、バルジの訃報に触れその場に呆然と立ち尽くす私を、さてどうしたものかと困った顔で見ている。
そこで私はなんとか気を取り直し、5年ほど前に一度利用したことのあるタクシードライバーの名前を告げた。
その男はグルチャランと言い、バルジと同郷のパンジャブ人である。バルジが帰省中で不在だった時に、バルジ自らが指名して来たピンチヒッターであった。

そうだ、彼ならおそらくバルジの後継となり得るだろう。

デリーのオートリキシャのドライバーオートリキシャのドライバーはさっそくグルチャランに連絡を入れてくれた。
そして私に向かって小さく頷くと、顎で後部座席を示して「乗れ」と言った。

走りながら聞いた話では、彼は今高級ホテルに詰めているということで、これから落ち合うためにインド門方面に向かうということだった。

グルチャランとはインド門手前の道で行き合った。
彼の運転するアンバサダーをオートリキシャのドライバーが目ざとく見つけ、クラクションを鳴らして停止させたのである。

デリーのタクシードライバー相手はこちらをあまりよく覚えていないようであったが、それでもバルジとの関係からなんとなく思い出したようであった。

とにかく明後日の朝9時のピックアップをお願いし、固い握手を交わして別れたのであった。

これからよろしく頼むぞ、グルチャラン!

******************************

「かけがえのない」という言葉は大切な人やものに対して使うが、そのままの意味では「代わりがない」ということである。
つまり特別大切に思う人でなくても、人はだれしも「かけがえのない」存在であり、代わりなどあろうはずもないのである。

別れた恋人の面影を求め、似たような人を新しい恋人にしても、それはあくまでも違う人なのである。
それはポスト・キャンディーズに同じ三人組のトライアングルがなれず、ポスト・百恵ちゃんに似たような容姿の三原順子がなれなかったことが如実に証明している。

そしてグルチャランもバルジの代わりにはなれなかった。

まず約束の朝、彼はドタキャンの電話を入れて来た。
まあ電話をして来ただけマシとも言えるが、お蔭で私は急遽別の車の手配をしなければならなかった。
思えばバルジはこんなこと一度もなかった。

ドタキャンの電話の際、彼は翌日なら自分のスケジュールが空いていることを何度もアピールした。その日私は夜の列車でデリーを発つ予定だったが、ホテルをチェックアウトした後の半日を観光でもしてつぶすのもよかろうと思い、頼むことにした。

インドのアンバサダーのタクシー当日、まずはこちらの希望コースを告げるも、彼なりの案があるようで若干のコース修正をすることになった。私は風邪気味ということもあり、あまり観光に意欲的ではなかったので、特に抵抗もせず彼に任せたが、こちらの意思を汲み取らない彼の姿勢に少々不満であった。

インドのレストランの付け合せまた昼食は観光客が利用するレストランに案内された。おそらくその店からマージンがもらえるのだろう。
私としてはその辺の安食堂に行きたかったのだが、そこでも抵抗するのをあきらめて素直に彼に従った。まあもうその時点で「この男はダメだな」という評価を下していたわけである。

ただしグルチャランの名誉のために言っておくと、「ダメ」というのは仕入れ目的で市内を回るのに適していないという意味である。
なにしろ彼は普段は高級ホテルに詰めていて、比較的裕福にして気前の良い(であろう)お客を相手に観光スポットを巡り、少々高くても清潔で味の良いレストランに案内するのが仕事なのである。そしてその点では彼は誠実にして紳士的で、運転も慎重かつ安全であるので向いていると思う。

インドの夕陽ということで、彼にしてもそういう仕事を放り投げて、ごみごみしたマーケットに分け入り、苦労して駐車スペースを探し、埃っぽい中でいつ戻るとも知れない雇い主を何時間も待ち続けるなんてことはあまりしたくないであろう。

夕刻ニューデリー駅で車を降りる際、またデリーに戻ったら連絡してくれと言うグルチャランに、私は愛想のいい返事をしておきながらも、もうお願いすることもないだろうなと思ったのであった。

動物の鈴・アニマルベル

バルジのこと:インドのタクシードライバー

インドに行くといつも使うタクシードライバーがいる。名前をバルジート・シンと言い、私は勝手に縮めてバルジと呼んでいる。

今回もデリーでの行動初日に、バルジがたむろしているタクシー溜まりに行って見た。

デリーのタクシードライバー目的地に近づくと後ろから一台のオートリキシャが近づいて来て「どこに行くんだ?」とお決まりのセリフを投げかけて来た。
振り向いてドライバーを見ると知っている顔だった。その男はバルジと同じタクシー溜まりにいるオートリキシャのドライバーで、巨漢のシーク教徒のドライバーと双璧を成す悪党、いや、やり手のドライバーである。
そこで私はバルジを探していることを告げた。彼らはこういう時もうそれ以上無理に自分の客にしようとはせず、率先してそのドライバーに携帯電話で連絡を取ってくれたりするのでとても助かるのである。

ところがその時そのドライバーは電話を取り出すこともせず、静かにオートリキシャのエンジンを切ると、じっとこちらの目を見てこんなことを言った。

「バルジートは半年前に死んだ」

えっ?

バルジが死んだ?

突然の思いがけない言葉に私は頭が真っ白になってしまった。

確かにバルジはよくおかしな咳をしていた。でも確か歳は私と同じくらいのはずなのだ。

オートリキシャやタクシーのドライバーはよくウソをつく。「今日はそのマーケットは休みだからおれがもっといい店に連れて行ってやる」などと言う。
でもさすがに人の生き死にでウソはつかないだろう。だいたいそんなウソはその辺のドライバーに確認すればすぐにばれてしまうわけだし。

なのでバルジが死んでしまったのは本当なのだろう。

インドのタクシーバルジとの出会いは私がこの仕事(インド雑貨販売)を始めてすぐの頃だったので、かれこれ10年以上にもなる。
その頃の私はまだ今ほどインドのことを知らず、そのため百戦錬磨のタクシードライバーたちと毎回必死のバトルを繰り広げていた。
そんな時たまたま乗り合わせたのがバルジのタクシーだった。

バルジには他のドライバーたちとはちょっと違った印象を持った。
インドのタクシーと言っても何か特別すごい能力を持っているとかではなく、どこか感が良いというか空気が読めるというか、でもそれは鼻に付くような頭の良さではなく、またこちらが鬱陶しく思うような押しつけの気のまわし方ではないのである。だいたいバルジも隙あらばお土産屋に連れて行こうとしたり(これは何度か付き合ってあげた)、あのマーケットは駐車スペースがないので嫌だとか、指示した道順が効率悪いだとか、料金を上げてくれだとかいろいろ文句を言うのである。でもこちらもその度に言い返し、それがその場限りで後を引かず気疲れしないところがよかった。
決定的だったのは、闇両替屋の誘いに私がどうしようかと迷っていた時、ふと見たバルジの目が「よせ」と言っているのがわかった時である。バルジは片目の瞼をほんの少し動かし、確かに私にそう言ったのである。
もっともバルジにしたら、自分がマージンをもらえる両替屋に連れて行きたかっただけなのかもしれない(実際その後そうなったが)。
しかしそんなことはどうでもいいことなのである。とにかく私はその時こいつとは感覚が合う、しっかり意思が通じ合う、そう確信したのである。人との出会いとは理屈ではなくそういうものなのだと思う。

そんなバルジとの思い出は数え切れない。
毎回デリー市内のマーケットを周るだけの付き合いだったが、それでも枚挙にいとまがない。

運転しながらカーステレオ(ラジオとカセットのやつ)を軽く叩き、頭をひねる仕草を何度もし、「暗に」それが調子が悪いことを私に教えるのである。
帰国後知り合いの自動車修理屋から中古のカーステレオを譲り受け、次回渡印時にバルジにあげたことがあった。

デリーのタクシーの料金メーターが一斉にデジタル式のものになった時、古いタクシーメーターが欲しいという私の願いを、バルジが叶えてくれた。(もっともこちらは有料だったが)

シーク教徒であるのにターバンを巻かないバルジも、シークらしく髭だけは伸ばしていたが、ある夏その髭をきれいに剃りあげて来たことがあった。
私は驚いて何があったのか?と問いただすと、バルジはこともなげに「暑いから」と言うのでもう一度驚いた。

インドのタクシーの車内そんなバルジのタクシーにもある夏ついにクーラーが付いたが、クーラーを使うと料金が50%アップとなるため私は一切使用しなかった。しかし40℃を軽く超える暑さにバルジが耐え兼ね、追加料金なしでクーラーを点けた時の私の満足感。たいして効かないクーラーの風が実に心地よく感じた。

日本製のバーチを買って来て欲しいと言われ、なんだそれは?バーチだ、バーチ!のやり取りが何度か続き、信号待ちの時バルジが右手で左の手首をしきりに叩き、またバーチ!バーチ!と必至に繰り返すので、それでようやく「バーチ」とは「ウォッチ」のことであるとわかった時のお互いの安堵した表情と「買って来れない」と言われた時のバルジの落胆の表情。

挙げ始めるときりがない。

私のトランクがデリー警察爆弾処理班によって破壊された時、もう処分してしまったトランクを欲しがってたバルジ。また次に破壊された時にはお前にやるよと約束したのに、それも果たせぬままである。

デリーのタクシードライバー今回デリーで仕入れをしている時も、ふと見たマーケットの奥まった路地に、バルジのタクシーが停まっているような気がしてならず、そのたび何度も寂しい気持ちになってしまった。

長い仕入れの待ち時間、バルジはたいてい新聞や雑誌に読みふけっていた。
知り合った時にはそんなことはなかったのに、いつしかバルジは目をしかめるようにして紙面を眺めるようになっており、私は日本から持参した百均の老眼鏡をあげたこともあった。

そんな風に人はだれもが歳を取り、そして死んで行くのはわかっているけど、

ちょっと早いんじゃないのかな、バルジ。

さすがフランス人:インドで出会った人

アーマダバードのキャリコ博物館の開館を待つ間に知り合ったフランス人です。現在イギリスで働いているというこで、英語がお上手でした。

インドのフランス人私が日本人だと知ると、「俺は日本のタトゥーに興味があるんだ」と言うものですから、たまたま持っていた点描画の風神雷神手ぬぐいを進呈致しました。すでに何度か使用したもので、この日も使う予定だったのですが、会ったのが朝一番だったので(その日は)未使用品なのです。

キャリコ博物館というのはインドの伝統的な布を収めた私有博物館なのですが、毎日の入館者をごく少人数に規制したり、内部はガイドに従ってツアー形式で回るだけで写真撮影も一切まかりならぬ!(入り口で荷物を預けなくてはなりません)といった厳しいところなので、他の写真はないのです。(入り口や外観は撮るのを忘れました)

でまあ、そのツアーをこのフランス人と一緒に回ったのですが、とにかくガイドは要所要所で短い説明をするとどんどん次に行ってしまうわけですよ。心行くまでじっくり見るどころか、その説明と展示物をすり合わせて記憶に留めるという作業すらままならないスピードなのです。

そしたらこのフランス人、「これじゃワインのテイスティングだけさせて、ちゃんと飲ませないのと同じだな」って私にゆーのです。

おお、さすがフランス人、形容の仕方がおしゃれザンスねえ~

インド:そりゃあもう個人的には大興奮のイベントでした・ナマステインディア2009

今年も国内最大級のインド系イベント「ナマステ・インディア2009」が、9月26日(土)、27日(日)に東京代々木公園イベント広場にて開催されました。

今年は両日とも天候に恵まれ、特に初日は快晴で汗ばむほどの陽気でありまして、そこがまたインドみたいな感じ(?)で飲食店ブースを中心に大変盛り上がっておりました。

インド人チャダさて、写真は初日の夕方野外ステージで行われました、「世界初のインド人演歌歌手チャダ」さんのステージ風景なのでありますが、実は私、今回はチャダさんとお話しする機会に恵まれ、個人的には大興奮のナマステ・インディアだったのであります。なにしろ私、チャダさんのステージの「出待ち」をしてでもお話しさせていただこーかと、そう思っていたのでございます。

と申しますのは、昨年このブログでチャダさんのことを書いた(こちらです)のですが、その中にチャダさんの当初の来日目的がミカン栽培の勉強であり、その後歌手デビューしたチャダさんが、「ミカンの勉強はミカンセイに終わりました」とテレビで言っていたということを書いたわけであります。

で、ですよ、

歳のせいか最近その記憶にちょっと自信が持てなくなって来ておりまして、「それならいっそ本人に確認してしまおーじゃないか」とね、そー思った次第なのであります。

まあその程度のことを確認しようなんていうのは、ご本人には大変迷惑かもしれませんし、私以外の方々には「どーでもいいじゃん」ってことになるのかもしれませんが、これは私の記憶の正しさを証明し、老いに打ち勝つためのとても大切な行為なのでありますし、もうすでに実行してしまったので今さら思いとどまるとかそんなことはなく、ただここにそのご報告をするだけなのであります。

しかし、私も初対面の人に何の脈略もなくいきなりそんなことを聞いてしまうほど厚かましくはないのです。
まずは初日の昼間、チャダさんの宣伝用(たぶん)ブースにお伺いし、自分がチャダさんの昔からのファンであることを告げ、握手をして一緒に写真を撮りました。

さあ、もうこれで私たちは知人になったわけです。もう何でも腹を割って話ができる環境は整いました。

そして迎えた翌日、まだ開場前の閑散とした会場でチャダさんの姿を見かけた私は大きく手を振りました。するとチャダさんは私に歩み寄りガッチリ握手をし、「さあ、何か悩みがあったら思い切って打ち明けるがいいさ」というような眼をしてこちらを見る(まあ言葉には出してませんでしたが)ものですから、思い切って私は悩みを打ち明けました。

「あのお、チャダさんって、最初はミカン栽培の勉強で来たんですよねえ?」

「ええ、そうです。九州の方でね」

おお!新事実だ!ミカン栽培の勉強は九州でされていたのかあ!
そーかー、そーだったのかあー、きゅーしゅーかあ。

「それで・・・テレビに出られた時に・・・『ミカンの方はミカンセイに終わりました』って言ってましたよねえ?」

「はい、そういうオヤジギャグを言ってましたね。よく覚えてますね」

やった・・・

私の記憶は正しかった・・・

私はまだまだ大丈夫だ・・・

ホッ!

とまあそれだけの話なのですが、この記事を書くにあたり昨年の記事を読み返してみましたら・・・

「チャダさんは私が小学校の高学年の時によくテレビに出ていました」

なんて書いてあるのですが、改めて年月を計算してみましたら、どう考えても私は当時中学生でした。

ああ、歳は取りたくないものだ・・・

シンプルデザインの真鍮製シンギングボウル

インド:わかるなあ、その気持ち・インドの自転車少年

これはコルカタのマイダーン公園で出会った少年(の写真)です。

インド・少年の自慢の自転車私が公園の中で写真を撮っておりましたらこの少年がやって来て、私につかず離れずしながら一生懸命自転車をこぎ、時折こちらをチラチラ見るという示唆あるいは示威とも取れる行動をするのです。

まあこの行動は別に私に敵意を持って行われた警告というものではなく、ただ単にカメラを持った外国人(私のことです)に興味を示したのと、できればそのカメラで自分の写真を撮ってくんないかなあという、とても子どもらしい気持からのことだとすぐにわかるものでした。

そこで少年にカメラを向け、「撮っていいか?」という仕草をすると、少年はすぐに自転車から降りポーズを取りました。

はい、ぱちり!

ほうほう、こうしてよく見ればなかなかいい自転車じゃあないですか。
まあ新車には見えませんが、たとえ中古(もしくは誰かからのお下がり)だったとしてもかなり高価なものでしょう。

なるほど、この少年は私に興味を持ったのではなく、この自慢の自転車を私に見せたかったのですね。そうなるとなんだかちょっと残念な気持ちがするから不思議です。

でも、私もかつて子どもだった頃、やっと買ってもらった自転車が嬉しくて嬉しくて、いやもう嬉しくて嬉しくて嬉しくて、なんだかこう嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて・・・えっ?くどい?

とにかくその自転車を誰かに見せたくて、そしてその自転車に乗っている私の姿を見てもらいたくて、でもってできることならば「おっ、いい自転車乗ってるね!カッコいいぞう!」などと言ってもらいたくて、意味もなく住宅街をぐるぐる走り回ったものです。うん、わかるわかる、その気持ち。

もちろんそんな私ですから、この少年に「おっ、いい自転車だね!」と言ってあげましたとも、ええ。

すると少年は私に、「少し乗っていいよ」と言ってくれたのです。

おそらくこの少年にとってとても大切な自転車だと思うのですが、そんな自転車をもしかしたらそのまま祖国にまで乗って逃げて行ったしまうかもしれない見ず知らずの外国人に貸そうだなんて、なかなか純粋でいい少年じゃないですか。

でも私はその時ちょっと大きな荷物を持っていたのと、地面が草地で自転車をこぐにはちょっと苦労しそうな状況だったこともあり、少年の申し出を丁重にお断りしたのであります。

少年よ、いつまでもその清らかな心を忘れず、決して外国人を騙すような人にはならないでおくれ。

木彫りのガネーシャ

インド:なんとも懐かしい味でした・インドのお饅頭

インド亜大陸の先端近く、ケララ州の州都トリヴァンドラムのバスターミナルには小さなお店が何軒かありました。
そうしたお店は新聞や雑誌を売るとともに、チャイなどの飲み物や、その場で揚げたスナック類なども供しており、これからバスで移動するという人たちが便利に使っているようでした。まあインド版キオスクといったところでしょうか。

そんなお店の一軒で私もチャイを飲みました。

インドのスイーツ屋するとお店のおっさんが、「おい、これも食ってみろ」と差し出して来たのが、この油で揚げた丸いボールのようなものだったのです。

せっかくの親切を断る理由はどこにもなく、また私もお腹が空いていましたので、それを受け取り食べてみましたら、あ~ら、日本のお饅頭とそっくりな味じゃあないですかあ~。
まわりは油で揚げられているとはいえ、中身はまるであんこそっくりで、いやあこんなインドの先っちょで、まさかの懐かしい日本の味とご対面です。

そのお饅頭の名前を聞くと、おっさんは「そいつは『ファイル』だ」と言いました。(と、私の耳にはそう聞こえました)

そしておっさんはさらにこう付け加えました。

「お金」

なんだよお、タダじゃないのかよお・・・

でもまあそのおっさんのそうした振る舞いはごく自然なものに思え、決して不快なものではありませんでした。
いえ、むしろこんな知らぬ土地で親しく(商売とは言え)接してもらえたことがなんだかちょっと嬉しく、笑顔で代金を払った私だったのであります。

インドのマフラー

インド:フロントに天才くんはいた・パナジのホテル

私が子どもの頃には、メガネをかけている子どもというのがとても少なかったものですから、そういう子はたいてい「博士」とか「天才」とかいうアダナがついたものです。

ここはゴア州の州都パナジ(パンジム)のホテルです。
このホテルのフロントに「天才くん」はいました。

インドのホテルのフロントにいた「天才くん」きっちりヨコわけに黒ぶちメガネ、そこに持って来てホテルの制服である水色のワイシャツがいかにも学生っぽく、一目見て「あっ、天才くんだ・・・」と心の中で思ってしまいました。(もちろん以後ずっと蔭では「天才くん」と呼ぶ)

私は天才くんに「エアコン付きの部屋」を所望しました。
天才くんはその風貌にたがわぬすばやい対応で帳簿を開きながら、かなりクセのある早口のインド英語でダララララァ~とまくしたてて来ました。

あ~、半分以上何を言ってるのかわかりません・・・

でもここはホテルのフロント、そして私は宿泊希望者で天才くんはフロントマンなわけですから、話す内容なんて限られているわけです。今夜泊まれるか泊まれないかだけなのです。

その時ホテルはガラ空き状態だったようで、すぐに希望の部屋が与えられまそた。

しかし部屋に行ってみると、部屋のエアコンは半壊状態の代物で、冷気の吹き出し口には風向調整のフィンがなく、温度調整のスイッチも壊れていて、ひとたび電源を入れるや冷たい風がベッドに横たわる私の体に直接当たり、寒くて寒くて仕方がないのです。なにしろそのベッドには掛け布団がなく、ただ薄いシーツが一枚あるだけだったからです。

そこで私はフロントに降りて行き、天才くんに「毛布をくれ」と言いました。
すると天才くんは「なぜ?」とその理由を聞いて来ました。さすが天才くん、どんなときも探究心が旺盛です。
私はただ単純に「エアコンが寒いから」と説明したのですが、天才くんには自分で「エアコン付きの部屋」を希望したのに「エアコンが寒い」と訴えることがどうにも理解できないようでした。

ったくう~、寒いのは理屈じゃなくて感覚なんだよ!

そんな私を天才くんは少しさげすむような眼で見ながらも、「わかりました」と言ってくれたので、私は安心してまた部屋に戻り、ベッドに寝転がり毛布の到着を待ちました。

しかし待てど暮らせど毛布は来ません。

どうやら天才くんの「わかりました」は、ただ単に自分が納得できたというだけで、私のその状況をなんとかしましょうということではなかったようです。

私はその晩、エアコンをつけたり消したりの忙しい夜を過ごしたのでありました。

インドのおもちゃ

インド:もうひとつの「ノープロブレム」・インド人チャダ

去る9月27日、28日の両日、東京の代々木公園に於きまして、国内でのインド系イベントとしては最大級の規模を誇ります「ナマステ・インディア2008」が開催されました。

私も2日間会場にいたのですが、その初日、突如野外ステージからとてもノリの良い曲が流れ始めました。
私はその時ステージが見えない場所におりましたので、なんとはなしに聞き流していたのですが、曲中に繰り返し出てくる「おろろん~おろ~ろん」という箇所が気になり始め、ついには我慢しきれなくなりステージの見える場所に移動してみたのであります。

するとそこには恰幅のいいターバン姿のインド人が、若い女性(おそらく小中学生くらいかと思います)ダンサー(?)を率いて歌っておりました。

あっ、あの人は・・・あゝ、あの人は・・・

そう、かつて日本で活躍していたインド人演歌歌手のチャダさんじゃああ~りませんか!

な~んてね。本当はプログラムを見て知っておりました、チャダさんが来るっていうことは、はい。

なんでもチャダさんは30年ぶりに新曲を引っ提げて日本に帰って来たとのことでした。そして先ほどからステージで歌われている曲こそが、その新曲なのであります。

インド人チャダ
*この画像はチャダさんの公式HPから勝手に拝借致しました。でもこの後新曲の宣伝とも思える文章になって行きますので、関係者のみなさんどうぞご勘弁下さい。


チャダさんは私が小学校の高学年の時によくテレビに出ていました。
そんなチャダさん出演のテレビ番組の中で私がよく覚えているのは、司会者が「チャダさんはどうして日本に来られたのですか?」というごくありがちな質問をしたのに対し、「ワタシははじめノーギョーのベンキョーでニホンにきました。ミカンのサイバイのベンキョーだったのですが、そちらはミカンセイにおわりました」というシャレを交えたものだったものですから、チャダさんは私の脳裏に深く深く刻まれ現在に至っているのであります。

とまあ、そんなチャダさんなのですが、今回引っ提げて来た新曲というのが、この不況にあえぐ元気のないニッポンに活力を与えようとい内容のものなのです。

で、こちらも公式HPにあった歌詞の一部を許可なく転載させて頂きますと・・・


世の中、暗いねー、みんなブルーだねー
とてもさみしいねー、夜の大都会
こづかい減ったよねー、おかずも減ったよねー
なのにお店に行けばー、またまた値上げだねー

でも何にも心配ないないない、私がついてるよー
インドのパワーで世直しだ、さあ、手をつなぎましょうー

踊ろう踊ろう皆の衆、やなこと忘れて一晩中
踊ろう踊ろうDancing、素晴らしきニッポンよー

(作詞:ワシャシャスキー兄弟)

この歌詞はやたらと語尾が延びており、特に前半は「ねー」で終わるものが多いのですが、実際日本語を話すインド人はよく「○○ね」と言ったりしますので、そのあたりの雰囲気がよく出ています。さらに語尾を「ね」にすることで、話者の独り言にもならずまた相手への一方的な投げかけにもならず、お互いが同じ問題を共有しているように感じられ、ごく素直に心に入って来るのであります。

そのように現在ニッポン(の庶民)が抱える諸問題を提起した後は、一転して明るく胸を張り「でも何にも心配ないないない」と、まるでシブガキ隊のように「ない」を3回も繰り返し、さらには「私がついてるよ」と、自らこのニッポンに救いの手を差し伸べてくれているのであります。あー、ありがたや、ありがたや。

で、この「何も心配ない」というのが、インド人がよく使う「ノー・プロブレム」なのです。
とかく「ノー・プロブレム」は、こちらからのクレームに対して言われるケースが圧倒的に多く、「おまえにとってはノー・プロブレムでも、こっちにとってはビッグ・プロブレムだあ!」と怒鳴ってしまうことも多々あるわけですが、逆にこちらが心底困り果てている時に、相談に乗ってくれたインド人が発する「ノー・プロブレム」という言葉は実に心強く思え、本当にありがたく感じるのものなのであります。

そして曲はいよいよ佳境に入り、「踊ろう踊ろう、皆の衆」と来まして、「素晴らしきニッポンよー」と締めくくるのです。
私の耳に「おろろん~おろ~ろん」と聞こえたのは、この「踊ろう踊ろう」だったのですね。
まあ踊ることで問題が解決すんのかよ!とも思いますが、もうどうしていいかわからない状況に陥った時には、一度その問題から離れてみるのも必要なのです。山で道に迷った時はやみくもに下るのではなく、一度見晴らしのいいところまで登ってあたりを見渡すというのと同じなのです。

とまあこの曲は、長い長い不況のトンネルで出口を見失ってしまったようなニッポン人に元気を与えてくれ、ひとつの光明をもたらしてくれるものになったらいいなあと思った次第なのでありました。

チャダさんの新曲発売日の11月19日は、みんなCD屋へ走れ!(宣伝)

インドの伝統工芸細密画